思想の統一
思想のなかにも、数多くの思想があり、高下・純雑・正邪等、ひじょうにまちまちである。そして、この思想は因習とならないかぎり、たえず発展し、より高いもの、より純なもの、より正しいものへと統一されようとして動いてきた。これは、一つの民族や国家の歴史の流れをみるならば、明らかなことである。
道徳のうえでこれをみるならば、原始時代の骨肉相食むがごとき残虐な闘争の世界から、しだいに親子の道徳律、師弟の道徳律、夫婦・兄弟・朋友等々と封建時代の道徳律が発達し、ついで、さらに個人の尊厳と自由が強調されるようになってきた。しかも、その自然のなりゆきとして、雑なものより純なものへ、不幸なものより幸福なものへと、たえず統一をめざして進んできている。
しかし、現在のわれわれの日常生活は、戦争や闘争による苦悩と道義の退廃によって、ひじょうに不幸な状態にあり、科学は長足の進歩をなしながら、道徳はかえって原始時代に逆もどりしたとまで批評されるほどである。しかし、個人の自由と尊厳を確立し、戦争のない平和な社会を建設する方向をめざして、わが国の憲法も制定され、これに逆行しようとする力を打ち破って統一をめざしていることは、明らかな事実である。
さらに政治の面でも経済の面でも、低いものより高いものを、邪より正を求めて発展してきた。個人の自由を無視する専制主義は、一人一人の人格を重んずる民主主義思想となってあらわれ、土地の解放とか、独占資本の解体とか、あらゆる面で人間生活は根本的に変革されてきた。
思想の統一も、権力によって受動的に統制された時代もあったが、いまや、人間の一人一人の自由な判断にもとづいて、自動的に統一の方向へ進み、権力によって思想は統制されるものではないという思想に統一されようとしている。同じく「統一」ということばを使っても、その内容は、ぜんぜん異なっているのである。
このようにして、思想界はすべて変動し、そのあらわれとしての人間生活も、驚異的な変化をもたらし、とくに自然科学の発展とともに、生活様式はまったく古代人や中世人の夢想だに許さぬ便利なものとなったのにかかわらず、幾百年、幾千年も昔のそのままの残骸が ― しかもわれわれの生活の根本となるべき宗教が、その残骸を昔のすがたのままでさらしていることは、まことにおどろくべき事実である。
なぜ宗教界だけが取り残されたか。それは、寺院や神社が権力と結んで保護され堕落したのが一つの原因であり、さらに、昔のままの宗教では現代人の生活にはその必要がなくなり、したがって、宗教が本来の使命を失っても、べつに痛痒を感じなくなったので、宗教界はさらに安眠をむさぼる結果となった。
しかるに、ここ数年の間に重大な変動があった。戦時中の権力統制が撤廃されて自由となるや、「現世利益」の新興宗教が簇生(そうせい)して、既成宗教の信者はもっぱらそのほうに吸収される情勢となり、かかる反動的なインチキ宗教の発展に刺激されて、ようやく、いわゆる識者の間にも「宗教問題」が真剣に論ぜられなければならなくなってきた。
そこにおいて、われわれは、宗教の正邪・純雑が正しく認識されなければならないと主張するものである。すなわち思想はすべて、邪・雑・下を排して、正・純・高なるものを追究してきたのと同様に、宗教もまた、正しいもの、純なもの、高いものをめざして批判し追究していかなければならない。そのときには、最高のものに統一されることは自然のなりゆきである。権力による統制などはまったく愚かなことであり、あたかも電燈が出現したら、ランプやタイマツはまったくすがたを消したごとく、最高価値に結集されていくのが人間の本性である。
しからば、いかにして、数多くの宗教を批判し、いかにして正しい宗教を発見するか、これがもっとも重要な問題である。ここにおいて「批判宗教学」が正しく打ち立てられ、正しく認識されなくてはならない。
一例をあげるならば、宗教はなんでもよいというのが現代人の常であるが、同じ宗教のなかにおいても、念仏の思想と法華の思想というものは、まったく相反するものである。念仏のごときは釈迦自身が説いているごとく、二千年か三千年も昔には効果のあった小法であり、現代末法にまったく効果のないものである。
さらに末法にはいれば、「余経も法華経もせんなし」(御書全集一五四六㌻)で、ただ日蓮大聖人の大御本尊のみが唯一無上の仏法の真髄である。しかし、現代人は、宗教にかんして、あまりにも無知であるから、「宗教の批判」について、よくよく考えなければならないと思うものである。
(昭和二十五年七月十日)