各種の法華経

 日蓮宗といえば法華経、法華経といえば日蓮宗、と一般人は考えている。これは「法華経」という意味をまったく知らないためにおこった誤りであり、しかも日本人は、ほとんどぜんぶが宗教にかんして、まったく無知である。


 たとえば、ある家に不幸が起こったとする。坊さんはインチキが商売だから、どんな経文を読みましょうかと考える。よい経文を読めばお布施が高い、お布施がたくさん出なければ中間のものをやる、般若経とか観音品の中途くらいですませてしまう。高いのでやってくれといえば、法華経の寿量品や自我偈をやる。こんな調子だから、日蓮大聖人の教えは南無妙法蓮華経で、しかも日蓮大聖人は法華経をお弘めになったとか、これをつくられたぐらいに考えている者がたくさんある。


 しかし、現存する法華経というものは、釈迦の出世の本懐として説かれた二十八品の法華経であって、日蓮大聖人の法華経ではない。

 釈迦がインドへ生まれてきた目的は、いま日本で法華経、法華経といわれている。この二十八品の法華経を説くためであった。この法華経を説かなかったならば、釈迦の出世の意味はぜんぜんなかったことになる。


 しこうして、この法華経は日蓮大聖人の教えとは、ぜんぜん色も形も違ったものであり、この二十八品の法華経では、釈迦に縁のある衆生のみが、これによって救われたのである

 

 釈迦滅後二千年以後の衆生 ― すなわち末法の衆生たるわれわれには、この法華経はなんの利益もないのである。

 

 よく日蓮宗と自称している人々が、法華経を研究すると、日蓮宗の教えを研究しているぐらいに考えているが、これは大きな誤りであって、この研究によってはなんの利益もない。もちろん、この法華経を拝んでも、また、この法華経のなかの「教え」を奉じても、なんの利益もない。もしこの法華経を研究するも、日蓮大聖人の教えを会得する予備学問にすぎないのである。


 いいかえれば。前号〔注〕においても述べたごとく、釈迦の悟りと、その教えによっていては、末法の衆生は絶対に救われないのであり、このことは日蓮大聖人の教えであるとともに、また釈迦自身もこのことを指し示しているのである。


 しからば、釈迦の教えと日蓮大聖人の教えと、どう違うか。日蓮大聖人の教えは法華経ではないのかということになる。
 

 そこで、同じ法華経にも、仏と、時と、衆生の機根とによって、その表現が違うのである。その極理は一つであっても、その時代の衆生の仏縁の浅深厚薄によって、種々の差別があるのである。

 

 世間一般の人々で、少し仏教を研究した人々は、法華経を説いた人は釈迦以外にないと考えている。しかし、法華経には、常不軽菩薩も、大通智勝仏も、法華経を説いたとあり、天台もまた法華経を説いている。


 日蓮大聖人の法華経は、開目抄に「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(御書全集一八九㌻)とおおせられ、また観心本尊抄に「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり(御書全集二四九㌻)とおおせられてあるによって、文底下種事行の一念三千の南無妙法蓮華経こそ日蓮大聖人の法華経なのである。


 法華経のうち本門十四品と迹門十四品と比較するならば、その相違が天地のごとくかけはなれているが、文底下種の日蓮大聖人の法華経と、文上十四品の釈迦の本門の法華経とを比較するならば、その相違はまた天地のごとくかけはなれているのである。そして、日蓮大聖人の法華経を文底独一本門の法華経と申しあげるのである。


 以上の結論をまとめていけば、不軽菩薩の法華経は「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏」(我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)(妙法蓮華経並開結五六七㌻)の二十四文字であり。釈迦在世の経は一部八巻と開結二経で十巻の法華経であり、天台の法華経は摩訶止観であり、日蓮大聖人の法華経は「妙法蓮華経」の五字なのである。


 天台の法華経にしても、釈迦の法華経にしても、たんに学問として今日に残っているだけで、少しの利益もなく、これを信心の対象にするならば、かえって邪宗教の信仰となる。なぜならば、民衆の苦悩を救う力がなくて、しかも末法唯一の法門たる独一本門の法華経流布をさまたげるからである。


 この日蓮大聖人の仏法は、釈迦の仏法は釈迦滅後二千年でその利益をうしない、末法の時代には三大秘法の新しい力ある仏教がおこるとの釈迦の予言にもとづいて出現したものである。
これこそ末法のわれわれ凡夫を根本からお救いくださるものである。ゆえに、日蓮大聖人こそ末法の衆生にとって唯一の仏様である。もし、他宗派のいうごとく、日蓮大菩薩とか大士とか呼んでいるならば、これは重大な誤りである。日蓮大聖人こそ御本仏であって、われわれ凡夫に即身成仏の大法をお与えくださったのである。


 しからば、天台にせよ。伝教にせよ、釈迦にせよ、南無妙法蓮華経が、いっさいの仏の種であり、しかも法華経の根源であることを知らなかったかというに、けっしてそうではない。心の底には知っておられながらも、当時の衆生の機根を見て、脱益の法を説き、しかも、御自身では文底下種の法を説く資格心ないために、これを末法におゆずりになったのである。ゆえに日蓮大聖人は「天台伝教の遺し給へる法門」とおおせられているのである。


 しこうして、末法にはいるや、日蓮大聖人が出現して、まったく先仏の予言のごとく、末法の衆生に独一本門の題目をおさずけになり、われわれは、この独一本門の法華経を修行することによってこそ、初めて即身成仏 ― 唯一無上の絶対の幸福をえられるのである。
                              (昭和二十五年五月十日)


〔注〕「大白蓮華」第七号のこと。本書四十九㌻「三種の悟り」をさす。