慈悲論
仏に慈悲のない仏があろうか。仏弟子に慈悲がなかったら仏弟子とはいわれまい。仏教のはたらきは、慈悲をもってもととしている。
慈悲ほど強いものは世にないのである。絶対の慈悲のうえにたって、衆生を化導せらるる仏にたいしては、慈悲にあまえるというより、われわれは慈悲の強さにおそれをなすのが、いつわりのない事実であり、真のすがたである。
友人にむかって忠告し、子どもにむかって訓育する。部下を指導し、先輩にたいして礼をもって仕えるとしても、その行動の奥に深い深い慈悲の心を蔵するならば、その行動は、説明もなく、証明する者がなくとも、相手にいっさいがかならず通ずるものである。
現代の時勢に、もっとも吾人の強く感ずることは、人々の生活に慈悲の自覚が欠如していることである。無慈悲そのものが現代の世相ではないか。
慈悲というものは、修行ではない。行動のなかに、心のはたらきのなかに、無意識に自然に発現すべきものであって、仏は生きていること自体が慈悲の状態に生きる以外に道を知らないものである。
「慈」とは、他に楽しみを与えることであり、「悲」とは、他の苦しみを抜くことをいうのである。この行動は仏の自然の行動であって、むりに修行しつつあるものではない。
ものを言い、手をあげ、法を説くなど、みな慈悲の行業のためであって、この境地に達せられた方を仏と称し、尊信したてまつるのである。仏弟子は、この境地にいたらんとして修行するもので、いかにすればこの修行ができるかは、仏法において時期があって修行法に相違があるのである。
宗教の五綱と申すのは、教・機・時・国・教法流布の先後と、五種類の修行の条件があるなかにも、とくに時によって修行がちがうのである。
日蓮大聖人様は、撰時抄と申す御文で「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(御書全集二五六㌻)とおおせになっておられる。
釈迦の滅後一千年間を正法と申して、六波羅蜜の修行などが主となっており、天台大師出現のころよりは、像法の修行と申して、これは釈迦滅後一千年から二千年の間で観念観法などの修行が主となっていたのである。しかるに、釈迦滅後二千年以後は末法といい、釈迦の仏法は功徳がなくなってしまって、新しい仏の教えに功徳のある時代になったのである。末法とは末の法というのではなくて、法がないという意味で、だれの法がないかというに釈迦の仏法がないということである。
しからば、だれの仏法が末法を利益するかというに。日蓮大聖人の仏法だけが末法を利益することは、経文の上に厳然として明らかなことである。されば、われわれは、日蓮大聖人の仏法を修行してこそ、慈悲の行為がなしうるのである。
慈悲の修行をすることが、慈悲を行ずることであると考える人がよくあるが、そうではない。真に時に相応した仏法を修行すると、自然に慈悲の行業をなしうるのである。されば、真実に日蓮大聖人の仏弟子と称しても、慈悲の行業がなしえないならば、仏弟子とは称せられぬことは前述のとおりである。
日蓮大聖人様は、あらゆる仏の大本でいらせられ、御本仏様と申しあげる。大聖人様御出現は、絶対の慈悲のうえに御出現あそばしていらせられるのである。いっさいの民衆を、ことに仏の仕事をなすべき日本民族を真底から救わんとの、確固不動の大決意のうえに御出現あそばされたのである。
されば開目抄にいわく、
「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書全集二〇二㌻)とも、また「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(御書全集二三七㌻)ともおおせられている。
慈悲こそ仏の本領であり、大聖人様は慈悲そのものであらせられる。日本国の諸人を愛すればこそ、仏教の真髄を説いて一歩も退かず、伊東へ、佐渡へ、首の座に、いくどの大難をものともせず、三類の強敵を真っ向から引きうけられた艱難辛苦そのもののご一生であらせられたのである。
これを思えば、われわれ大聖人の弟子をもって自称する者は、たとえ身は貧しくとも、学問はなくとも、身分は低くとも、いかなる地獄の世界に生きようとも、大聖人様の百万分の一のご慈悲たりとも身につけんと、朝な夕なに唱題に励まなくてはならない。それには、大聖人のご生命のこもった題目を日に日に身に染めこませ、心にきざみ、生命に染めて、一日の行業をみな慈悲のすがたに変わるよう、信心を励まなくてはならないのである。
そもそも、この宇宙は、みな仏の実体であって、宇宙の万象ことごとく慈悲の行業である。されば、慈悲は宇宙の本然のすがたというべきである。太陽の存在も月天子の照るのも、多くの星が相引き、相話し合うのも、風も、アラシも、草や木の成育も、みな相たがいに慈悲の行いであって、ただ無心にして知る者なしと、われわれがかってに判断しているにすぎないのである。
このことについて、大聖人は当体義抄に「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」(御書全集五一〇㌻)と。
このおことばは、私の愚鈍をもって次のように拝するはおそれ多いことであるが、宇宙は妙法蓮華経の当体そのものであるとのおおせであると拝する。宇宙が妙法蓮華経の当体なら、妙法蓮華経とは御本仏のことである。すなわち、宇宙は仏のおすがたそのものであらせらるるとするなら、宇宙はまた、慈悲の行業そのものでなくてはならないのである。
宇宙自体が慈悲である以上、われわれも日常の行業はもちろん、自然に慈悲の行業そのものではあるが、人たる特殊の生命を発動させている以上、人間は、一般動物、植物と同じ立場であってはならぬ。より高級な行業こそ、真に仏に仕える者の態度である。前に述べたごとく、末法の修行は大聖人様の仏法修行である以上、大聖人様のおおせどおり、われわれも三大秘法の真の仏法たる題目を唱え、人々にも唱えせしめて、自然の行業に慈悲があふれる人々をより多くつくらなくてはならないことはもちろんである。
これがためには、仏法の二大行動たる摂受、折伏のうち、われわれは折伏行に励んで人々に題目を唱えさせるようにしなくてはならない。しかし、この折伏行も絶対の慈悲のうえに立たなくてはならない。
慈悲のない折伏は御本尊様にたいし、宇宙の子として、仏の子として申しわけないと心がけなくてはならぬ。
慈悲のうえに立つ折伏は、いかにことばがやわらかでも、いかに態度がやさしくても、そのなかに強い強い仏の力がこもるから、相手に御仏の慈悲を知らさずにはおかないのである。
さてしかし、私どもが慈悲を説くからといって、むかし釈迦滅後に修行した六波羅蜜の一つである布施行と、慈悲とを区別しなくてはならない。困った人々に物をやり、金を与えることが慈悲ではないのである。物の布施には限りがある。与えるほうにも限度があり、もらったほうにも、その効用には限りがある。与えるほうからするなら、千円ずつ与えて、何人に与ええようか。もらったほうも千円以上には役立たない。しかし、法の施しは限りがないのである。
しかし、小法を与え、邪法を与えることは、害があって益がないから、これは慈悲とはいえない。小法や邪法は与えられたほうの生命をきずつけるからである。
真の仏法の法、偉大な日蓮大聖人の真の教えである正法を与えるなら、与えるほうも大聖人の教えを伝えるだけであるから無限であり、与えられたほうも、生命の源泉に清浄な生命力を植えつけられるのであるから、無限の活動力が生じて、新進の人生が開拓できるのである。これこそ真の慈悲と称すべきであって、われわれの慈悲はこれである。
さて、慈悲は尊いものではあるが、慈悲を他人に強要すべきものではない。「あなたは慈悲の行為をなさい」とすすめるのは正しいが、「あなたは私に慈悲であってください」「あなたは私に慈悲がない」などというのはあやまりである。自分自身が他にむかって慈悲であるべきであるのに、他にむかって慈悲を求め、強要するのは、大聖人様の弟子とは申されない所行である。
また友人同士は慈悲のない交際をしてはならない。慈悲のない交際は、いつわり親しむものであるが、いつわりのない交際というものは、また勇気を必要とする。ほんとうに信じ合える友人ならこの境地において、たがいに慈悲の立場で交際すべきである。この友人が慈悲をもって交際するというのは、相手の悪――すなわちその友人の生活上の反価値を、取り除いてやるのが慈悲である。しかし、このことを強調すると、慈悲のすがたにかくれて相手の欠点をついて痛快がったり、自分の自慢をしたり、平素のうっぷんをはらしたりする者があるが、これは慈悲にかくれて反対に無慈悲の自分を、『ばくろ』しているものである。
われわれは、自覚した慈悲の生活には、なかなかはいれないのが普通である。ここに、大聖人御出現の意義があるのである。すなわち、末法という時代は悪人が多く、絶対に慈悲の行業が必要な時代であるが、現実は無慈悲きわまりないのである。ただこれを捨てておくと、動物や植物や、自然の慈悲以外に発展しないのである。本然の実相は慈悲でありながら、人間としては仏の智慧の発展がなければ幸福がないのである。
すなわち人間は、仏の智慧を啓発して真の慈悲に生きるのが、いっさいの幸福を獲得する根本であり、その智慧は信心によってのみえられることを深く銘記すべきである。すなわち草や木は本然に持っている慈悲によって、あるいは腐って肥料となったり、あるいは動物の食べ物となったり、あるいは人目をたのしませたりしている。しかるに、人間は、日蓮大聖人の仏法によって、さらに発展し、自覚した真の慈悲に生きなければならないのである。
(昭和二十五年一月十日)