幸 福 論


 だれ人も、幸福でありたいということは、申すまでもない。老人にせよ、若者にせよ、同じことである。ことに、世の先達者たる者は、自分自身の幸福はもちろんのこと、世の人を、いかに幸福にすべきかを意識的に考えて努力している。この先達者をみるに、人生の当然のことながら、物質方面と精神方面と二つに分かれている。一方の代表は科学者であり、一方の代表は宗教家である。


 この二つの方面をよく考察してみると、科学者は自分の外界を見つめ、そして外界の事物を分析し、かつ総合して真理を発見し、かつこれを活用して、人類の幸福を図ろうと努力した結果が、今日、二十世紀の科学の世界である。

 

 科学者が真理を求めるのは、人生の幸福のためではなくて、ただ、事実を推究するにすぎないと主張する科学者があるけれども、事実、あらわれた結果は、人生を幸福にするものである。これを闘争や悪のために用いたいと願望したにせよ、究極は人生の幸福をもたらすことに変わりはない。


 しかして、科学がいかに進歩し、人類の幸福のために最高限につくしたにせよ、それには限りがあるものである。なぜかならば、科学の出発点は、われわれ生命の外界の事物をみつめることより出発しているから、生命が依存する外界は最後まできわめつくされるにはちがいない。しかし、この外界がいかにきわめつくされても、生命自体の幸福の世界へは手のつけようがない。


 汽車ができ、飛行機が飛び、無線電信が発達し、原子爆弾の原理が応用の世界として、各人の台所まで幸福の手をさしのべたところが、子のない悩み、不幸の子、弱い子への悩み、父なきさびしさ、母なき悲しみ、妻に去られた空虚、または嫉妬、怒り、または生まれつきの愚かさをどうすることができようか。

 

 たえざる人生の悩みは、科学の力をもってどうすることもできない。いかなる科学者も、病と死および衰老は、どうすることもできない悩みではないか。


 人生の生きている悩み、生命自体の悩みは、どうすることもできないのが現実である。商売が繁盛しなくなったからとて、どこの科学者に、電波であろうと、ラジウムであろうと、原子の分裂をおこなってもらおうと、商売が繁盛するわけにはいかないし、やきもちで苦しんでいるとき、どんな良医にたのんでも、なおる薬は永久にできない。金がほしくてたまらない人間に、そんな心をなおす薬をさがしてやろうというても、できる相談ではない。女房をだまして女房が怒ったときに、注射でなおす法は、いかに科学が進歩してもできないであろう。

 このように生命の内面的問題は、科学の力ではどうにもならない。
 

 ここに宗教の出発点がある。科学は外界をみつめて真理の世界へ進んだと同様に、宗教は各人の生命の内面の問題の世界へ真理を求めて発展したのである。だから、科学者の知りえない未知の真理が、数多く発見せられ、しかもそこに、人類の幸福のために偉大な貢献をなしているのである。
 

 この幸福へと、真理を求めて進んだ二つの潮流の根幹がわからなくては、科学と宗教の問題は解しえないのである。
 しかるに、その宗教の真理が実践面および応用面になると、いまの宗教界はみなみな堕落して、偉大な先哲が発見した真理を忘却して、バカみたいな坊主や、サルのような宗教家ばかりとなって、しかもそれらは、あたかも真理を知っているような顔をして“えらそう”にしゃべっているから、おどろかざるをえないし、あきれざるをえない。


 されば、われわれの幸福なるものは、われわれの生命と外界の関係から生ずるもので、われわれの生命の内面的真理の確認なくしては、けっして幸福を悟ることはできないものである。
 

 さて、幸福の反対として考えるものは不幸である。不幸がなくなれば幸福が生まれるのである。しからば、人類の不幸はどうして生じたか。人類の悩みはどうして生じたものであるか。これは宗教の極理に達した哲人の真理を聞く以外に道はないのである。


 開目抄に、日蓮大聖人が釈迦と志を同じうして、この世に不幸のきたる原因を論究しておおせられているには、
「仏世を去ってとし久し仏経みなあやまれり誰れの智解か直かるべき、仏涅槃教に記して云く『末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土』とみへぬ、法滅尽経に云く『謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石』と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依って悪道に堕る者は爪上の土・仏法によって悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし。此に日蓮案じて云く世すでに末代に入って二百余年・辺土に生をうけ其の上下賤・其の上貧道の身なり、輪回六趣の間・人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も・強盛の悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか久遠五百の退転して今に来れるか、法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・手中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」(御書全集一九九㌻)


 この御文はまことに深いご意味が含まれている。まちがった宗教がいかに人を不幸にし、その生命を完全なものにできないかということをおおせられている。この真理の主張は、大聖人お一人ではなく、自分と同様、釈迦も同じ意見であるとおおせられているのである。

 

 今日、われわれが不幸を感じ、幸福を感じられないのは、過去世において邪宗を信じたがゆえである、
と。また、現世に邪宗を信ずる者は、現世はもちろん、未来も不幸を背負わなくてはならないとの御文である。
 

 こんなことをいうと、科学者は信じないかもしれない。しかして「此れをしれる者は但日蓮一人なり」とのおおせは、科学者の知る領域ではない。なぜかならば、科学者は事物を科学するかもしれないが、生命の内在的真理にたいしては、無知であることを自覚しなくてはならない。
 われわれの生命には、染浄の二法が存在する。清らかな生命は、外界のいっさいをすなおにうけて、宇宙の大リズムに調和して、生命が流転するから、けっしてむりはない。この生命こそ、偉大な生命力を発揮するがゆえに、人生を楽しむことができるのである。
 ところが、生命の染法と申すのは、生命の幾多の生命流転の途上に、みな、誤った生活が生命に染まって一つのクセをもつことになる。そのクセをつくるもとが、欲ばり、怒り、愚か、嫉妬等のもので、これによって種々に染められた生命は、宇宙のリズムと調和しなくなって生命力をしぼめていくのである。
 

 このしぼんだ生命は、宇宙の種々の事態に対応できなくて、生きること自体が苦しくなるので、すなわち、不幸なる現象を生ずるのである。


 なにがゆえに、生命に、欲ばり、怒り、愚か、嫉妬、わがままなどの悪条件が染まりこんでいくかというと、

 「教え」が誤っているものの指導をうける場合、

 「教え」が正しくとも、その教えをうけいれる力ある民衆のおらぬ場合、

 または「教え」と「民衆」の理解が一致しない場合、

 また「教え」と「時」とが相応じない場合、

 または「教え」と「国」の状態が一致しない場合

 

 は、教えをうける人々は迷惑して、生命を染法へ染法へと送りこむのである。ゆえに教えは、時と機と国とにぴったり合った正法を修行しなくては、生命を清めて、清らかな生命を顕現するわけにはいかないのである。しかして、釈尊以来、末法の正法とは、日蓮大聖人の教えであることは、経文を少しく研究したものは、みなうなずくところである。釈迦の正法は法華経二十八品であり、像法時代の正法は天台の摩訶止観であり、末法今時の正法は文底秘沈の大白法、三大秘法の南無妙法蓮華経である。


 であるから、釈迦の時代に、天台の理の一念三千の法門を観念観法したところが、生命の浄化ははがれないし、いまごろ、釈迦の法華経二十八品をありがたがって拝んだところが、生命の浄化はありえない。末法今日においては、日蓮大聖人の文底秘沈の大白法、三大秘法の御本尊によらなくては、生命の浄化はないのである。


 しかるに今日、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経を唱える者は何百万とある。しかし、大聖人の文底秘沈の大白法、三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える者がないのである。しかりとすれば、大聖人の弟子とは申されませぬし、大聖人の南無妙法蓮華経は三大秘法の大法であるから、文底の南無妙法蓮華経を唱えない者は、たんに南無妙法蓮華経と唱えたところが、生命を浄化しようはずがない。生命を浄化できないとすれば、なんの価値もない宗教である。いな、大聖人の開目抄におおせのごとく邪宗と呼ぶ以外にはない。
 

 邪宗なら、大聖人のおおせのとおり仏敵であり、人類の敵である。しからば、大聖人のおおせのとおりの正宗が世に存在するか。
 大聖人のおおせどおり、正しく三大秘法の大白法を守りとおし、人類を真の幸福へとみちびく宗教は、日蓮正宗以外にないのである。
 日蓮正宗こそは、この本理にかなって生命を浄化し、生命を強くし、この苦しい人生をも楽しい浄土として楽しみうる一大宗教であることを、吾人は主張するのである。

 されば、この大宗教を信ずることによって、生命のリズムは宇宙のリズムに調和して、生きている幸福をしみじみと感ずるのである。生命の歓喜こそ、幸福の源泉力である。


 以上、申し述べたように。幸福を感じ、幸福な人生をいとなむ源泉は、われわれの生命力である。この生命力と外界との関係力を価値といい、この価値が幸福の内容である。価値内容たる利益(生産)・美(人類の美的生活)・善(社会道徳)は、みな外界との関係力で、外界は宇宙の万象であるがゆえに、こちらの生命力が宇宙大でないかぎり、吾人は宇宙の万象と関係していきづまることなく、宇宙に闊歩はできないのである。

 

 もし、生命力が家庭の事件を解決するだけの生命力なら、家庭内のことではいきづまらないが、町内、市内の事件にはすぐいきづまる。市内、町内の事象に対応できても、生老病死という事象、天変地夭のような大事象には、いきづまって堂々たる生命の闊歩はありえないから、不幸になるのである。
 ゆえに、日蓮大聖人のこの教えは、宇宙大の生命力を発揮する教えであり、この教えは、日蓮正宗にのみ存在するのであるから、この教えによって人類は真の幸福を歓喜すべきである。


 しかしながら、仏教のうちでも、とくに、日蓮宗は乱脈をきわめているために、日蓮正宗にのみ、かかる偉大な哲学が存在すると断言すれば、おおいに異論の出てくるであろうことはいうまでもない。もし異論のある者は、即刻、堂々と反発すべきである。大聖人の真意がまったくうしなわれている現状において、一刻たりともこれを黙過すべきではない。そうすれば、吾人も明々白々たる道理、証文、現証によって邪宗邪義のゆえんをつき、ついで正法正義を青天白日のもとにあらわさんのみ。
                              (昭和二十四年九月十日)