科学と宗教

 最近の放送討論会で、科学と宗教は一致するかという問題について討論していた。これは最近、各方面において問題にされることではあるが、科学と宗教が一致するというものは、一人もいない。

 ただ、宗教家や科学者のなかで、信仰をもっているものは、「科学の領域で宗教を論ずべきでない」と主張して、科学と宗教は一致しなくてもおかしくないと強弁している。


 これを聞くものは、一応、もっともなように感ずるけれども、これだけでは、知識人や青年にとっては、心の奥は、なにか割りきれないものを残すのである。しかし、なにゆえ、それで割りきれないかは、はっきりとつかみえないのが、現在の実情である。

 

 その理由は、現在の知識人や青年は、とくに宗教にかんして、何も知っていないからである。
 

 現在の大部分の宗教は、科学と一致するわけがないことは、自明の理である。それは、宗教の本質から離れて、形式宗教になっているからである

 

 科学は生き生きとして、吾人の日常生活に躍動しており、迷信や伝説の世界は日々にせばめられ、科学こそ、われわれの生活を指導し、かつ指導すべきものと、大衆に信じられつつあるときに、これに反して、宗教は生活指導どころか、かえって科学的な文化生活にはじゃまものになり、人を救うどころか、かえって大衆を食いものにする職業化しつつあるのが現状である。

 少しまじめな宗教でも、たんなる葬式や修養の形式になって、人間生活の原動力となるには、ほど遠い存在である。第三階級を救うどころか、第三階級にいとわれている。
 

 なにゆえ、このように、職業宗教が、はんらんしてきたか。それは、人間のもつ弱点でもあり、また人間の本質のなかに、どうしても宗教が必要であり、真の宗教は生活の指導原理であり、また、真の宗教家は生活の指導者でなければならないことを、かすかながらも知っているからである。
 

 科学が生活を指導しようとし、指導すべきものであると信じられつつあるとともに、大衆のなかに溶けこんでいるにかかわらず、宗教は一般大衆を指導もしなければ、指導する権威も失っている。そして、宗教は家庭生活に溶けこんでいないとともに、ある場合に、邪教を狂信するものが出てくると、かえって、これは文化生活を破壊しているにすぎない。

 この事実から、われわれは、現在の宗教が科学と一致していないと論断するものである。さらにまた、今日、世上にある多くの宗教を、形式宗教か、さもなければ邪宗教であると論断するゆえんも、ここにあるのである。


 宗教は科学の世界で論ずべきでないと主張する人々は、科学の力をおそれているのであり、科学の合理性にたいして、宗教の非科学性をどうすることもできない無気力の宗教を信じているからである。

 

 考えてみよ。精霊が降るとか、見ることもできず、実証することもできない天や神が、この世をつくり、われわれを支配しているとか、西方十万億土に極楽浄土があり、阿弥陀仏という仏がいて、死んだとき、雲に乗って勢至、観音の二菩薩が迎えにくるとか、そのほか、病気がなおる、金がもうかる等々およそ、科学とこれらの宗教とは一致するはずがないではないか。


 少なくとも、仏教において、釈迦が仏教教団を組織したときは、生き生きとして民衆を指導し、非科学的ではなかったのである。四諦の法輪にしても、十二因縁論にしても、六波羅蜜にしても、妙法の世界観、宇宙観にしても、時の科学を指導し、当時の民衆を救ったのである。

 その釈迦の真精神は、三千年の間に失われ去って、仏教のウジ虫が充満したのである。

 

 だから、宗教が科学と置きかえられて、両者が一致するわけがないのである。一致しないのが当然である。世はあげて、宗教業者だけの世界になり、金もうけをしたければ新興宗教を始めよ、少し気の変になった人間を、神だ、仏だとつくりあげて、愚かな大衆から浄財をしぼりとろうとするのである。


 この行きかたは、なにも、きのう、きょうの問題ではない。今日においては、とくに、これで、莫大な財産と勢力をつくった集団が簇生しているのである。これらの集団は、仏や神を利用した詐欺団とみるよりほかないではないか。しかも、無名の小さな詐欺団が、これをマネて次々と簇生しつつある。

 世の識者や指導者も、そうとうの知識と見識をもっておりながら、宗教にかんしては、まったくその実体をつかんでいないから、これにたいしてなんらの対策をたてることができず、無知の大衆は、家も財産も、身も心も、むしばまれつくして、やっと気のついたときには、取り返しのつかなくなっている例があまりにも多い。


 さて、しからば、科学と一致する宗教、または科学的宗教というものが、存在するであろうか。

 それにはまず、科学とか、科学的ということばについて、考えてみなければならない。
 

  通常、われわれが科学的であるというときには、理論と実証が一致しなければならない。すなわち、その理論が、空理空論であってはならない。ということは、その「教え」で説くところの理論や、哲学が、因果の法則を無視してはならないということである。あらゆる現象が、すべて因果の関係にあり、偶然ということは、無知の時代や原始人ほど偶然が多かったが、科学の進歩とともに、しだいにその偶然と考えられたことが、必然となってきた過程からみても、少なくとも科学的というからには、因果を無視するわけにはいかないのである。


 因果の法則には、偶然がないとともに、また普遍妥当性をもっていることは、いうまでもない。酸素と水素が化合して、水蒸気になるということは、いかなる時代でも、いかなる地方においても、合致する法則である。
 ゆえに、ある宗教が、その説くところがかならず実証されて、時と所と、人種と環境を問わず、ただ一つの例外なく実証されるならば、その宗教の説く「教え」は、すなわち「法則」であり「真理」である。とともに、これを、科学的宗教といわなければならない。しかも、これは、客観的に学問として考える考え方であるが、生活の面において、幸福になるといったら、かならず幸福になり、不幸になるといったら、かならず不幸になる力強い宗教こそ、もっとも科学的であり、吾人の欲求するところである。
 

 つらつら考えてみるに、真の宗教、科学的宗教とは、いかねる宗教であろうか
それは、
 

一切衆生の苦悩を、救うべきものでなくてはならない。
一切衆生に、真の幸福を享受せしむべきものでなくてはならない。
一切大衆の生命を、真に浄化せしむべきものでなくてはならない。
一切大衆に、生命の真実のすがたである永遠の生命を、悟らしむべきものでなくてはならない。


 しかして、真の宗教は、科学を、この立場において指導すべきものである。

 

 科学を戦争や暴力に用いるならば、人類の不幸はその極に達して、阿鼻叫喚の地獄にむせぶことは、すでにわれわれの身をもって体験したところである。
 ゆえに、真の宗教は、科学を平和と人類の幸福のために用いるべく指導し、かつ、この科学を大衆の幸福を創造するために利用しなければならないのである

 

 政治も、文化も、経済も、すべて、一切大衆の平和と幸福を建設する方向に指導することのできる強い宗教でなくてはならない。すなわち、宗教とは、われわれがあらゆる現象の実相を正しく認識し、正しく把握して行動するために必要である。
 

 ゆえに、真の宗教は、自然科学はもちろんのこと、政治、経済、文化等、いかなる社会現象とも、相反し、矛盾するわけがないのである。人々は、これによって偉大な生命力を獲得し、いかなる困難と戦うともおそれることなく、社会はこれによって寂光土となり、科学はますます進歩し、文化と平和の国が建設されなくてはならない。


 さて、かかる宗教が、世に存在するか、いなか。おそらく否定するものは、これにたいして、そのようなことは、宗教家のだれでも唱えることであり、観念論であるというだろう。また、すでに信仰しているものは、自分の宗教こそ、それであるというだろう。
 しかるに、いま、私が、道理、証文、現証によって、正しくこれを判断するときに、
 真に偉大な宗教
 真に民衆を救う宗教
 真に大衆が幸福になる宗教
 科学を指導して世界平和に貢献する宗教

 

 が、きわめてわずかの人によって護持されていると主張するならば、世人は一人もこれを信用するものはないであろう。逆に、信用する人もないというのは、おまえのひがみではないかと反問する人があるならば、この人はまた、「真の宗教」を求めようとする人ではなくて、批判の領域に立つ人である。


 釈迦は、偉大な仏眼をもって、末法(釈迦滅後二千年以後の時代)の世相を予言している。末法の衆生は、貪欲であり、怒りやすく、しかも愚人であり、疑い深く、嫉妬が強く、何かを自慢し、それでいて心がみだれ、禅定の気持ちがないと説いている。これを、現代の人々にあてはめるときに、あまりにも的中しているのにおどろくものである。と同時に、「大白法」の名を唱えるものがあっても、これを信用するものがないと、釈迦も断定し、吾人も身をもって体験しているところである。
 「自分の宗派を宣伝しているのだろう」
 「他宗の悪口を言っているのだ」
 と、多くの人々は一方的にきめて、私のいう根拠を真剣に検討しようと欲しない。


 しかるに、私は、いま結論だけを大胆にいうならば、二十世紀の科学をいだき、二十世紀の科学の指向する道を指導する力のある宗教は、
 「日蓮正宗」
 であると確信するのである。それには、深い理由があって、一言につくすことは不可能であるが、いま、きわめて概括的に述べると、左のとおりである。


 釈迦は偉大な予言者であって、自己の滅後の世相を、幾段階にも分けて、その世相およびその時代の衆生の機根にかなう教典を分類して残された。その最後の時代が末法であり、この衆生は、貪・瞋・癡の三毒が強盛であって、尋常の力をもってしてはとうてい救うことはできないとし、しかも、この時代には、釈迦五十年の経典がすべて役に立たなくなると断言した。

 

 このときにあたり、一人の聖人があらわれて、釈迦の教典中、最高の地位にある法華経より、さらにすぐれた「教え」をもって、世人を化導すると予言したのである。
 この予言をうけて、末法に出で、予言に寸分のちがいなく行動して、法華経以上の「大白法」を打ちたてられたのが、日蓮大聖人である。

 法華経以上の「大白法」とは何か。それは、本門の三大秘法であり、なかんずく、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、いっさいの教典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根源である。


 科学と宗教について、その解決を求めるものは、よろしく、この三大秘法 ― なかんずく本門戒壇の本尊について、あらゆる方向から検討する必要があると主張するものである。
                                 (昭和二十四年八月十日)