永遠の生命

 人間の生命は三世にわたるというが、その長さはいかん。これこそ、また仏法の根幹であるゆえに。いま左の経文を引用する。
 法華経如来寿量品にいわく、
 「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり。譬えば、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使人有って、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽さんが如き、諸の善男子、意に於いて云何。是の諸の世界は、思惟し校計して、其の数を知ることを得べしや不や。弥勒菩薩等、倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず。亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞、辟支仏、無漏智を以っても、思惟して其の限数を知ること能わじ。我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於いては、亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、諸の善男子、今当に分明に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著き、及び著かざる者を尽く以って塵と為して、一塵を一劫とせん。我成仏してより已来、復此に過ぎたること百千万億那由佗阿僧祗劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」(妙法蓮
華経並開結四九六㌻


 


 右の経文は、釈尊の、数多くの経文中、もっともたいせつな部分であり、悟りの極底である。その大意をいうならば「お前たちは、みな、私がこの世で仏になったと思っているが、じつは自分が仏になったのは、いまから五百塵点劫という、かぞえることもできないほど昔に成仏して、常にこの娑婆世界にいて活動をしているのである」という意味であり、自分の生命は、現世だけのものではなく、また悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである。
 さらに同じく、寿量品の次の文は、前文とは別の立場から拝すべきである。

 「諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に、我少くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来、久遠なること斯の若し」(妙法蓮華経並開結四九九㌻)


 すなわち、右の文は、福徳の薄い、心のにごった者は、生命は現世だけであると考えているが、真実の生命の実相は、無始無終であると説かれているのである。


 日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観ぜられたのにたいして、大聖人は名字即の凡夫位において、本有の生命、常住の仏を説きいだされている。すなわち凡夫のわれわれのすがた自体が無始本有のすがたである。瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままと説かれているのである。
 

 三世諸仏総勘文抄にいわく
 「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき。後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏」(御書全集五六八㌻)云云。


 当体義抄にいわく
 「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」(御書全集五一三㌻)


 十法界事にいわく、
 「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本能本有の十界互具を明さず……故に無始無終の義欠けて具足せず」(御書全集四ニー㌻)云云。


 御義口伝にいわく、
 「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり.さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり」(御書全集七五二㌻)


 さて、すでに明らかなごとく、仏を中心として展開する釈尊の一念三千は、本迹ともに理の上の法相であり、凡夫の当体本有のままにおいて身につける大聖人の直達正観事行の一念三千こそ、もっとも生命の実体をより本源的に説き明かされているものと拝する。

 私に会通をくわえて本文をけがすことをおそるといえども、久遠の生命にかんして、その一端を左に述べていく。

 生命とは、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることも誤りである。われわれは、広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって、「妙」なる生命の実体把握をはげんでいるのにほかならない。
 あるいは、アミーバから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、赤熱の地球が冷えたときに、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。
 地球にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件がそなわれば、アミーバが発生し、隠花植物の繁茂する地味、気候のときには、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである。


 ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、栄えているとするも、なんの不思議はないのである。また、いずれかの星に、まさに人間にならんとする動物がいることも考えられ、天文学者の説によれば、金星が隠花植物の時代であるとの説を聞いたことがあるが、私は天文学者でないから、これを実証することはできないにしても、さもありなんと信ずるものである。

 あるいは、蛋白質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。

 

 生命とは宇宙とともに本有常住の存在であるからである。