三世の生命
法華経譬喩品(ひゆほん)にいわく、
「爾(そ)の時に仏、舎利弗に告(つ)げたまわく、吾(わ)れ今、天、人、沙門(しやもん)、婆羅門(ばらもん)等の大衆の中に於いて説く。我昔曾(かつ)て二万億の仏の所(みもと)に於(お)いて、無上道(むじようどう)の為(ため)の故に、常に汝を教化(きようけ)す。汝亦(また)、長夜に我に随(したが)って受学しき。我方便(ほうべん)を以って、汝を引導(いんどう)せしが故に、我が法の中に生ぜり。舎利弗、我昔(むかし)、汝をして仏道を志願せしめき。汝今悉(ことごと)く忘れて、便(すなわ)ち自ら已(すで)に滅度(めつど)を得たりと謂(おも)えり。我今還(かえ)って、汝をして、本願所行(しよぎよう)の道(どう)を憶念(おくねん)せしめんと欲するが故に、諸(もろもろ)の声聞の為に、是の大乗経の妙法蓮華、教菩薩法(きようぼさつほう)、仏所護念(ぶつしよごねん)と名(な)づくるを説く。舎利弗、汝未来世に於いて、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干(そこばく)千万億の仏を供養し、正法を奉持(ぶじ)し、菩薩所行の道を具足(ぐそく)して、当に作仏することを得べし」(妙法蓮華経並開結一九九㌻)
化城喩品(けじようゆほん)にいわく。
「是の十六の菩薩沙弥は、甚(はなは)だ為(こ)れ希有(けう)なり。諸根通利(しよこんつうり)して智慧明了(ちえみようりよう)なり。已に曾(かつ)て、無量千万億数(しゆ)の諸仏を供養し、諸仏の所に於いて、常に梵行を修(しゆ)し、仏智を受持し、衆生に開示し
て、其(そ)の中に入らしむ。汝等(なんじら)皆、当(まさ)に数数親近(しばしばしんごん)して、之を供養すべし。所以(ゆえん)は何(いか)ん。若し声聞、辟支仏、及び諸の菩薩、能く是の十六の菩薩の、所説の経法を信じ、受持して毀(そし)らざらん者、是の人は皆、当に阿耨多羅三藐三菩提の如来の慧(え)を得べし。仏、諸の比丘に告げたまわく、是の十六の菩薩は、常に楽(ねが)って、是の妙法蓮華経を説く。一一(いちいち)の菩薩の所化(しよけ)の、六百万億那由佗恒河沙等の衆生は、世世(せせ)に生まるる所、菩薩と倶(とも)にして」(妙法蓮華経並開結三三八㌻)云云。
如来寿量品にいわく、
「諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽(ねが)える 徳薄垢重(とくはつくじゆう)の者を見ては、是の人の為に、我少(わか)くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来(このかた)、久遠(くおん)なること斯(かく)の若(ごと)し」(同四九九㌻)
自我偈にいわく、
「我(われ)仏(ほとけ)を得てより来(このかた) 経(へ)たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祗なり」(同五〇六㌻)
右の経文は、法華経のごく一部ではあるが、およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世および来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。ゆえに、仏教から三世の生命観をぬきさり、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学はまったくその根拠をうしなってしまうと考えられるのである。
しこうして、各経典には、生命の遠近、広狭によって、その教典の高下浅深がうかがわれるのである。さらに、日蓮大聖人にあっても、三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ、釈尊よりも大聖人は、生命の存在をより深く、より本源的に考えられているのである。
開目抄にいわく。
「儒家(じゆけ)には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す……貴賤・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云。かくのごとく巧(たくみ)に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄(げん)とは黒なり幽(ゆう)なり かるがゆへに玄という但現在計(ばか)りしれるににたり」(御書全集一八六㌻)
またいわく、
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪(た)えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵(じん)をふる悪知識に値(あ)うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書全集二三二㌻)
撰時抄にいわく、
「今の人人いかに経のままに後世をねがうともあやまれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候」(御書全集二六九㌻)
かかる類文は、あまりにも繁多であり、三世の生命なしに仏法はとうてい考えられないのである。これこそ、生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。しかしながら、多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに、吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を科学的に考えない、うかつさを笑いたいのである。
およそ、科学は因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、たんなる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく消えてなくなると考えて、平然としていることは。あまりにも自己の生命にたいして無頓着者といわねばならない。
いかに自然科学が発達し、また平等をさけび、階級打破をさけんでも、現実の生命現象は、とうてい、これによって説明され、理解されうるものではない。われわれの眼前には人間あり、ネコあり、イヌあり、トラあり、すぎの大木があるが、これらの生命は同じか、違うか。
また、その間の関連いかん。
同じ人間にも、生まれつきの頭の良しあし、美人と不美人、病身と健康体などの差があり、いくら努力しても貧乏人である者もおれば、また貪欲や嫉妬に悩む者、悩まされる者などを、科学や社会制度ではどうすることもできないであろう。かかる現実の差別には、かならずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探求なしに解決されるわけがないのである。
ここにおいて、三世の生命を説くからといって、われわれは霊魂の存在を説いているのではない。人間は肉体と精神のほかに、霊とか魂とかいうものがあって、現在を支配し、さらに不滅につづくということを承認しているのではないことを明確にしておく。