(十一)、占 い

 占いの種類には、
①比較的根拠のある、人相・手相・骨相等。
②常識論的な姓名判断。
③何らの根拠もない低級な思想から、さらにゆがめられた実相、墓相、方位、五行九星、易。
④上記の他に、マジナイ、通力等による透視術、千里眼、辻占、歌占、石占、コックリサマ等がある。
 しかし総体的には、すベて真に幸福な生活を実現するには、何の役にも立たないものばかりである。

           
① 人相・手相・骨相 = 我が国のは主として中国式のものが多い。近来、西洋の骨相学が併用されるようになった。顔・手・骨格等がそれぞれの線やノクラミによって、その人の吉凶禍福を表わすというが、統計上からみて大体どういう形をしているものは、どういう性格であり、特徴であるかということは、ある程度の根拠があるといえる。
 しかし示された傾向を、どう取るかが問題である。人相・手相の面でこう出ているから、自分はもうこれしかできないとか、またはこれによって自分は絶対に幸福になると、それを自分の人生の最高指針とすれば、とんでもない誤りを犯すことになる。
 

 なるほど、その人の傾向を示すものだとはいえ、現在のことだけかまたは、わずかな未来のことしか知られないし、ましてや人智を啓発する教えをともなわないのだから、本当の意味での人心の指導はできぬし、真に不幸の原因を教え、未来幸福の方法を人に与えるものではない。


② 姓名判断 = あんな名前のつけ方だから、運が閉じてしまうのだとか、劃数が合わぬから、この人は不運な目にあうんだ、これは改名した方が良いなどということを、よく聞くことがある。これはもちろん迷信である。そんなことがあっては、たまったものではない。
 姓名学はあまりデタラメな名前をつけるなということだけである。
 男か女か判断できぬ名前はおかしいし、姓と名字が全然意味のとれない……大川鹿之助(川に鹿はすまぬ)のようなのでは笑われる。名前なんかどうでもよいといって、悪太郎とか、ガキ造とか、石川姓に五右衛門とかつけたならば人からいやしまれる。やはり良い意味をもった名前をつけようというのは、親の子に対する愛情で、この意味においてのみ容認せられるものである。
 

 それ以上に開運だとか閉運だとか、劃数・天地・五行の良否などをトヤカクいっては、迷信の部類に入る。


③ 家相・墓相・方位 = 中国の方式より出ている、五行説というのがある。自然界の根本要素を、木火土金水とし、一定の相生相剋の順序によって、発生したり消滅したりするという思想で、また易の陰陽論と合して陰陽五行説とも称せられている。
 

 大体この論はすこぶる断定的で、木と火、火と土などは合性だから吉、木と木、火と火等は同気反撥で凶であるなど、どうしてそうなのかは、宇宙の生命流転の大原理だと自称する。
 しかしこの大宇宙は一念三千の生命であり、我々もまた一念三千の生命であり、これが真実の宇宙観、生命観であり、五行論は因果の理法を無視した低級なる宇宙観である。
 よく大工・左官等の建築業者が、非常にやかましく家相・方位というが、これすら徳川時代に多くの粉飾された理論を持出して、現在のような方式を生んだものである。     
 家を建てるのには、空気の流通、光線の取り方、保温等によって考えられるものであって、この方位に出張るのは凶とか、へこむのが吉とか、またはここに便所や流しがあるのは病難、あそこに倉や井戸があるのは火難等といいたてているが、すべて邪説であって、なんらの根拠もない。
 

④ 易 = 古代中国の哲学で、世間の事象の移り変り、物の見方を説いたものである。その主張は、この宇宙は陰陽二力によって構成されていると説き、ハ卦、六十四卦を立てて、占いの便にしている。
 また古来よりの優秀先輩占者が実際にやった易断の記録を集め卦辞・爻辞という参考書をこしらえ、ちようど裁判官が判決例をこしらえ尊重するように、これを易断の根拠としている。すなわちこれが易経である。

 

 ここで問題になるのは、客観性がないということで、すなわち同一の人の同一の問題について、もし二人の易者が占えば、二つの異る卦が立つことが多い。また同一の卦でも、易者自身によって、判断されることが食違ってくることもある。こういうように違ってくる所に、普遍妥当性を欠いているから、根本的に信ずるに足らないものであり、いわゆるコジツケといわざるをえないのである。
 故に易経の中に、統計的に精錬されて多少は用いられる部分があったと仮定しても、目先きの参考以上にはならず、成仏という絶対最高の幸福などとは程遠いことになる。
 大聖人は太田左衛門尉御返事(御書一〇一七頁)に、「厄の年災難を払はん秘法には、法華経に過ぎずたのもしきかなたのもしき
かな」と、大御本尊様の功徳の甚大をたたえられ、仏道修行、すなわち三大秘法の大御本尊様を愛持、信行に励むを、最高の法と断じられている。

 易などはいうに甲斐なき低級な教義であることを、はっきりと仰せられているのである。


 結論していうならば、これら占い、易などを信じて、これが今後の自分の人生を幸福にしてゆく指針だとするのは、大きな誤りであり、最大の危険である。