(十)、俗 信

①イナリ信仰

 イナリは、ちよっとした町工場や農家の庭隅にまつられているだけでなく、デパートや高層ビルの屋上にまで祠をかまえ、花柳界や水商売の人や、商人、政治家の間にも、広く信仰されている。
 なぜ今日このようにまで流行したのだろう。それは「豊臣秀吉が百姓の小伜から天下を統一できたのも、田沼意次が一小吏から大名、老中にまで出世できたのもイナリを信仰したおかげだ」などという風説があった。ここへもってきて、金もうけにかけて抜け目のない邪宗の坊主や神主たちが「イナリは開運の神様である」などと宣伝したので、出世欲や商売繁昌を願う政治家や商人たちが、この宣伝にひっかかって、われもわれもと信仰するようになったのである。


 これらイナリの信者でも、午の日にだけお詣りに行くていどの単純な信者が人数も多い。このていどの信者の他に、イナリにこりかたまった信者も、多く巷に見聞きするが、その害毒は本当にこわい。

 

 二、三の例をあげてみよう
 この信者たちは、経木に油あげや紅白のモチをのせ、キツネの像にそなえて願をかける。中には少しでも自分の頭を良くするつもりなのか、自分の頭とキツネの頭を、かわるがわるなでては拝んでいるものもいる。
 このイナリを一生懸命拝むと、口はとがり目じりはつり上って、顔だちや体つきまでキツネそっくりになり、ぴょんぴょんととんだりはね上ったりし、油あげがあれば一目散にとんで行く。いわゆる「キッネッキ」とよばれる精神異常者になってしまうのである。
 あるいはまた「私の神経痛はどうしたらなおせますか」とおうかがいを立てる信者に対し、半狂乱に神がかった「行者」が「ヘチマに自分の名前を書いて海へ流せ、決して後をふりむかないで家へ帰ってこい」などとお告げをする。

 こんなバカバカしいことをやっても、行者の祈禱で、時には一時的にはなおることもある。「あな大した御利益よ」なんていっているうちに、どんどん盲信の奈落へ落ちていき、はては気狂い、一家離散して、取り返しがつかなくなる。


 ところで、このイナリの正体は何だろう。一般にはあまりよく知られていないようだ。イナリには神社イナリと寺院イナリの二種類がある。神社系の代表格は「稲の神」を祀るといっている京都の伏見イナリであり、日本で稲作の農業がひろまって行ったころか、奈良時代の初期(約千二、三百年)といわれている。
 一方、寺院イナリの方はダキニ天を本尊としているが、これは弘法大師が唐から帰朝して後、真言密教をひろめるために、民間信仰に迎合して自己の勢力拡張をはかったのが、その始まりだという。
 しかし、この稲の神といったところで、まだダキニ天などはもちろんのこと、いずれも今やっている連中の拝む正体は「キツネ」であり、単なる畜生であるのみならず、その本質は人のいのちをむしばみ不幸にする「魔」以外の何ものでもない。

 邪教といえども、小さな目前の利益があることもあるが、こんな小利で人をだまし不幸にするイナリは本当に恐しい魔のすみかである。