(五)、生長の家

 教祖は谷口雅春で「生命の実相」「真理」などの著書を盛んに出版、すでに百三十余種類に及んでおり、現在でも「生長の家」その他の月刊誌を発行し続けている。
 そして谷口雅春は「生命の実相」の中で生長の家の雑誌や著書を読むならば、生活に幸福が実現するし肉体も健康化する。読まなくても唯ポケットに入れて置くだけでも良いと説いている。また読者を増やすことが教団の使命で、誌友(読者)増加に尽す者には必らず報い(良いこと)があるとしきりに販売拡張の要を説く。
 しかも出版、配本、印刷を日本教文社、世界聖典普及会、光明社などと株式会社組織を作って株主に信者を入れるという用意周到ぶりである。いくら理屈をいってみても、一種の企業会社という以外ない。およそ本を本を読んだりポケットに入れておくだけで、人間の不幸や病気が解決するなどとは人を愚民視した話である。不幸も病気も過去にその因があって現在に結果として色々な不幸や病気が起るのである。その原因を何ら取り除かず、又消しえないのに現在の結果に変化の起るわけがないではないか。


一、教義上の誤り


 まず万教帰一といって、色々な宗派があるが、その説く真理は同じである。釈迦の教えもキリスト教も他宗派の教えも究極は一つである。その究極の真理を生長の家が説くと主張する。それ故に他宗派を信仰していてもかまわない。生長の家をやればかえって各派の真随が良く解るようになるといっている。
 

 因果の理法を無視した、生命の真実の姿を説きえないキリスト教と、厳しい因果律に立脚して無始無終の永遠の生命を明し尽した仏法とは、たがいに相反するものの双壁であって、何らそこに共通点もなければ類似点もなく真向から教義が相対立する。

 それを無理矢理に同一視しようとする生長の家の論義は、コジツケと宗教に対する研究不足な偏見の所産でしかない。
 

 次に三界は唯心の所現、物質は心の影を説いている。すなわちすべての事がらは心の持ち方でどうにでもなるというのである。また宇宙には物質はなく存在するものは「実相」だけだという。
 

 貧乏も病気も心に思うからあるのであって、心に健康を描けば病気はなおりも無限無給(神から無限の財宝を与えられている)を心に思えば貧乏は解決するというのだが、これほど非論理的な教えはない。

 健康とか病気とかは肉体の状態であり、貧富は環境の問題で、しかもそれにはそうなった過去の因もある。それを今の心の問題としてかたずけようとするのは現実の姿に眼をつぶらせる。現実逃避という以外ない。さらに人間の持っている宿命は、心でどう思おうが変えられるものでない。こうした問題に対しては、何一つ論証できないのである。


「物質はない」これほどバカげた教えがあるものだろうか。真理はあるがままの物を如実に表現することである。現実に存在する物質を否定することは真理をも否定するものである。

二、修行の面からみる

㋑ 教典と称する「甘露の法雨」を読誦する。
 この甘露の法雨は「何か書きたくて堪らない時に、自然と霊感的に出てきたものである」という。その内容は仏教とキリスト教の考えを目茶苦茶に引用してデッチ上げたものにすぎない。
 

㋺ 神想観といって、正座して合掌、心を統一する。これを日に一回三十分間はやる。
 その形態だけは天台大師の教えた迹門の修業に似ている。すなわち「神によって生かされていると思いこむ修業で、これによって病気も治る ー そうである。


㋩ 日常生活に愛行を行う。
 すベてのことに感謝する。電車の中で足をふまれても、「あなたの足がよごれませんでした、ありがとうございます」とやる。キリスト教の「汝の敵を愛せよ」というのをまねるわけである。はてはネズミやバイ菌にも感謝せよ調和せよと説く。そのくせ 一面では逃避戦術も用いる。即ち、悪い縁に接すると命がよごれるといって、法論などで悪い言葉 ? に接してはならぬという。
 この面からみれば愛行も不徹底といわねばならぬ。