二、日本神道の歴史

 日本の神道は、最初、神道ということばさえないような原始宗教だった。
 日本民族は、昔酋長を中心に団結していたが、その風習が発展して先祖を尊ぶという風俗が生れてきた。だから、これは理論的にはきわめて幼稚なものであった。
 

 やがて、六世紀のころ仏教が渡来してくると、仏教と神道との間に優劣を決定する争いがおこったが、神道側がかなうわけがなく、聖徳太子以後は、仏教が正しく立派な教えであるということが、世人一般に認められるようになった。そこで神道側では、仏教の教義を盛んに盗み取り、儒教や陰陽道までとり入れて、教義の新編をはかった。


 しかし当時の宗教界の情勢としては、仏教が何といっても優勢で、一歩一歩神道側は屈服し、鎌倉時代のころには仏教に従属して、自らの安全と世俗的権力を維持するに過ぎなかった。


 江戸時代の末、支那語に翻訳されたキリスト教のバイブルが日本へ入ってきた。これが神道に強い影響をあたえた。神道の教義らしい教

義は始めてこの時作られたといってもよい。この平田神道は、尊王論の背景として世の流行思潮となり、明治維新の廃仏毀釈運動の源流をなしたのである。そして、さらに日本の国家神道として全国民に君臨し、遂に邪教の本体をあらわして、軍部とともに日本民族を滅亡の道へ導いたのであった。


 現在、敗戦とともに一挙に失った権威を取返すべくもなく、神札販売、結婚式場の運営、お祭などにしがみついて余命を保っている。

 

三、日本神道に教義なし

 原始民族の風俗に端を発する日本神道は、従って教義も何もないのは当然である。
 神社を中心とする神道(神社神道)には、特定の教祖さえなく、教典もないのが普通であるが、江戸時代の末ごろから、儒教・仏教等の刺激をうけて、盗み取って教義体系をととのえることが大流行した。こうして神社から離れて発展したものを宗派神道という。

 十三派に分裂したので、神道十三派という。

 今次大戦の後、民心の混乱に乗じて、一四二教団(31年現在)を数えるにいたっている。


 主なところでは、神社本庁、神道大教.御嶽教、扶桑教、黒住教、金光教、天理教、PL教、稲荷教、天照皇太神宮教(踊る宗教)などがあるが、いずれも仏教教理の一部を盗みとった教義を奉じて民心をたぶらかしている。
 

四、神の本体は法華の守護神


 日本の神は氏神が中心である。氏神は氏(部族)の上(長)であって、一族を守るものであり、天照大神は民族全体の長であり、日本全土を守るものである。そのことは、天照大神のみことのりたる神勅に明らかに示されている。
 

 ところが今度の戦争で、日本は全国民あげて天照大神を奉じ、西欧哲学を奉ずるアメリカと戦った。その結果は無残な敗戦だった。天照大神は、日本の氏神の大将なのに、どうして日本を守らなかったのであろうか。


 ひと口に結論をいうと、天照大神は日本にいなかったのである。大聖人様は立正安国論(御書一七頁)に「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」

新池御書(御書一四四〇頁)に「此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多
くの人を導く」と仰せられている。

 すなわち、天照大神は法華の守護神であり、謗法の国には住まないのである。今、天照大神始め諸天善神は、皆法味をあじあわないので日本を去り給うたのである。従って、神社や神札には神はおいでにならないで、かえって人を不幸にする悪鬼魔神がすむのである。だからこそ日本は未曾有の大敗戦を経験しなければならなかったのである。


 そうだからといっても、天照大神に罪があるわけではない。日本一国が一日もすみやかに正法に帰依することこそ、天照大神の喜び給うことであり、一日も早く広宣流布して、天照大神にもその他の神々にもお帰り願うのがわれわれの責務である。