魔の通力

「お宅の庭に柿の木があるでしよう。それを植えかえたから、さわりがあるのです」とか、「あなたの探しものは家の北側、それも上の方にあります。帰って探してごらんなさい」と怪しげなことをいう行者や祈禱師がいる。迷った人たちが、こうした所を訪ねて一、二回当ると、もう万能視して、あの先生は大したものだと、何をするにもおうかがいをたてるようになる。しかし
小さな迷いごとの解決はできても、根本的不幸の解決はできないばかりか、かえって深みにはいて大きな不幸を招く結果になるのである。
 

 諫暁八幡抄(御書五七七頁)に、「魔王・魔民等守護を加えて法に験あるようなりとも終にはその身も檀那も安穏なるべからず」というのが、この姿である。


 通力といえばもう絶対何でもわかるとすぐ信じこんで、特別な偉い先生と考える単純な所につけこんで、これらの行者等が横行する。いわゆる狐つき等も通力を出すが、もっとも低級な鬼畜の生得通で、暗闇でねこが見えるのや、鼠が火事を予感して逃げるのと変らない。それを有難がれば、だんだん狐や蛇に似てくるのである。予言、探し物等の天眼通、その他天耳通、神足通などという通力もあるが、現在これらの通力をつかえるものはほとんどなく、大半が手品まがいのインチキが多い。

 

 たとえ本当に生命の法則を悪用して通力が出たとしても、幸福になるという根本問題には程遠く、通力のみで絶対と信ずるのは危険この上ない。

 

 題目弥陀勝劣事(御書一一四頁)に、「先ず通力あるものを信ぜば外道、天魔を信ずべきか乃至仏の最後の禁しめは通を本とすベからずと見えたり」
 また唱法華題目抄(御書一六頁)に、
「但法門をもて邪正をただすベし、利根と通力とにはよるベからず」
 

と仰せある通り、魔の通力は一時は人の苦を除くようにみえて、みな迷うが、遂には不幸へとおちこんでゆくものであり、根本とすべき教えではない。
 

 その証拠にこれら行者、祈禱師の最後はみな悲惨で、自分の生命を損じ、堕地獄の姿を現じている。