霊 魂 説

「死んだらどうなるだろ」ということは、誰でも一度は考える問題である。そして人間は漠然とではあるが、生命はこの世限りのもりでなく、三世にわたる永遠の生命だと心のどこかで感じとっている。こんな意識の中でもっとも単純に考えられるのが、霊魂説である。


 人間は肉体と精神の二つの面があり、死ねば昼に見えない精神の変形した霊魂が、肉体を技け出して、どこかに存在していると信じられている。それを裏づけるかのように死後報知(死のしらせを遠隔地で知る)、神呼び、心霊術などというのが、もっともらしく横行している。


 しかし精神と肉体は説明のためには、わけることはできても、生命そのものは「色心不二」といって、決して別々なものではない。生命の実態は三身常住なのである。

 霊魂について釈迦は涅槃経の中で否定している。もし霊魂があるとするならば、道理によって論証され、現実によって実証されなければならない。


 しかし霊魂を主張する場合

(一)万人が五官で認めることができない。

(二)夜中・暗闇など判然としない又恐怖を与える心理状態の環境に限られている。

(三)通力・暗示によるもの。

(四)みこ・霊媒者等特殊な人を通じてのみの場合に限られる(この場合必ず施行者の生命は損じられて行く)等、

 

 そこには何ら論理的科学的証明もなく、普遍妥当性を見出すことができないのである。
 

 霊魂は存在しない。しかし死後の生命についての現象は仏法でも説かれているそれは感応という原理である。

 宇宙の生命は十界の生命であり、地獄もあり餓鬼・畜生も仏界の生命もある。そしてこの宇宙には十界がありながら、たがいに何ら邪魔にはならない。たとえばこの空間にはドイツの電波も、フランスもアメリカも、ラジオ東京もNHKの電波も来ているが、たがいに邪魔にはならない。精巧なラジオを取りつければ、波調の合せ方でどの放送も聞えてくる。死後の生命は大宇宙にとけこみ、各々地獄なり修羅、天とそれぞれの業を感じている「我」というものが存在する。それは霊魂ではない

 この苦しみをもつ生命の波調が、生きている同じ十界の生命をもった人に同調して、言葉がきこえたり、見えたりする現象があり、これは霊魂の働きでなく、感応ということである。
 生命の法則を悪用して、他人のわからないことを知りえたとしても、死んだ人を幸福にすることも、自らが幸せになることもできない。もし先祖を救いたければ、御本尊に題目を唱え回向することによる以外ない。