第六章 外道及び民間信仰の實態

一、神様の実態と霊魂説

 神様の実態


「神札を焼くような信心はごめんですよ」
という人がいる。ではその人が熱心に神様を拝んでいるかというと、大抵、神棚は塵にまみれ、かまどの上に真黒になったお札が貼ってある程度である。
 

「では、あなたの拝んでいる神様は、どんな神様ですか」
という質問には、ほとんど返事がない。神様に限らず宗教がすっかり因習化して、昔からあるものだからと誰もその実態をただそうとしないのである。


 では世間で神様といっているその種類にはどんなものがあるのだろうか。大別すれば三つある。

 

第一は「天造説」をもとにした天地創造の神で、キリスト教などがその代表である。

第二は先祖や偉人を尊崇する神で、日本の氏紳などである。

第三は仏教上の神で、梵天・帝釈のような諸天善神である。

 

その他、自然力や物質・動物などを神とあがめるのもあるが、きわめて原始的なものが多く、ここでは論外としておこう。
 

 天地創造神=宗教の中でも「天造説」をもとにして人間の考えから生れた神で、キリスト教の天の父なる神、天理教の天理王命(親神様)金光教の天地金之神などがこれである。人間社会の中で、なかなか説明できない事柄や現象もある。しかし、それらを全部神の仕業であるときめて信ずることは、昔ならともかく、現代人にはできないことである。

 

 一例をあげればキリスト教でいう処女懐胎や、キリスト復活を通じて神を信じさせようとするが、はなはだ無理な話である。

 たとえ信じたとしても、その人の観念から生れたもので、事実はありえない。こういう宗教は自然科学とまったく相反するし、低級な宗教である。


 先祖の神々=日本の神様は先祖を祭る氏神がそのほとんどである。その氏神の大元締元が天照大神なのである。

 氏神というのは、その一族の長老であり、みんなのために功績のあった人を、死後もうやまったのである。この先祖を神とする思想はやがて道徳と宗教の混合したものに生長する。しかし宗教とは信仰し祈願するものであり、先祖はただ遺徳的な観点から感謝報恩すべきものにとどまる。だから宗教の対象となるべきものは、智慧と教えで迷いの衆生を化導する力のあるものでなければならない。この智慧と教えをもって永久に変らず迷いの衆生を教化して下さる方が「仏」なのである。この意味から氏神には感謝報恩こそすれ、信仰や祈願するのは間違いである。


 仏教上の神=仏教で説かれている神とは、「正法護持」の誓いをたてたものであり、必らず正法受持者を護るという約束をした諸天善神をいうのである。
 これを生命論の上から見るならば、「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり、元品の法性は梵天・帝釈と顕われ、元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(治病抄九九七頁)とある通り、十界互具の生命自体に梵天・帝釈等の諸天善神も、第六天の魔王等悪鬼神もそなわっている。

 宇宙自体を生命体とすれば、必らず諸天善神もおり、その作用も必ずある。この立場から見れば日本の神々も又、諸天善神の中に入るのである。
 

 神様と神礼=さてここで注意しなければならないのは、神様と神札とは違うことである。世間の人は神社からお金を出してお札を買ってきて、それをどこかへ貼っておけば、それで神信心になると思っている。しかし神社から買ってきたお札の中に神はおらず、悪鬼の棲家と化している。その理由については「立正安国論」に、邪教がはびこり正法護持の者が少くなれば諸天善神
がその国を去り、悪鬼が入る原理がくわしくのベられている。その実証としては、あらゆる神札を山のように積み重ねながら、不幸のどん底にあえいでいる人がたくさんいる。


 真に先祖を供養し、神様を尊敬する道は、独一本門の大御本尊に題目を唱え奉る以外にはないのである。