十一、わかったら実行する

 仏法の話を聞かされると、自分は学問がないからダメだ、まだ日蓮正宗というものをしらベたことが無いからダメだ、その中によくしらべてわかったら入信するよという人がある。この人は仏法を研究してわかることができると思いこんでいるのである。御書をよく読み法門の研究さえすれば、わかるものだと思っているのである。


 しかしよく考えて見れば、学問や研究でわかり得るものならば、何も唱題修行をすることもなく、御書の講義を受ける必要もないことになる。お坊さんにしろ、信者にしろ、一生がい研究は続けて行くものである。こうした人たちはわかってから入信したのでなく、自身の生命と自分の持っている宿命を見つめれば見つめるほどわからぬことが多く、苦悩を解く方法が他にないため、これを解決し真の幸福生活をつかもうと入信したのである。


 つまりわかろうとして入信したのである。故にわかったら実行しようというのは全然方法が逆である。一例をとると田中智学という有名な学者があるが、この人は日蓮大聖人の御教義を非常に長い年月かかって研究し、相当奥深い点までつっこんでいるが、惜しいかな日蓮大聖人の血脈を受けた信心をしていない故に、根本が間違ってしまい、言葉だけは日蓮正宗の口マネをしているのであるが、その実、まったく天台法門になりさがってしまったのである。

 

 このように、どんなえらい学者でも、実行すなわち信心がなければ、絶対わかりえないのである。
 信心することによって、行力がわいてくる。行ずることによって解力、すなわち理解能力が湧いてきて、習学したことが始めて理解されるのである、そして真実の理解は、自分自身で体験上の証拠を取って、なっとくするものであり、頭で考えてわかったというのは、実はわかったつもりにしかすぎないものである。
 

 つまり自分自身で証拠をつかんで、初めてわかったといえるのであって、これを末法の悟りというのである。
 

 よってわかったら実行するというのは、いつまでたってもわかり得ないという結論に終るだけであるから、文証・理証・現証、すなわち大聖人の御書にのべられていること、これに対する理論的裏づけ、およびその通りに実行した結果出てきた現象上の証拠、この三つをそろえて示されたら、これをもって、正しいものだと認めるベきである。
 

 大ざっぱに常識で判断して見ても、日蓮大聖人や釈尊が命がけで一生がいかかって御説き下された法門を、我ら凡人が少しばかり研究してわかるなどということは、誠におかしな話しである。
 像法時代に支那の小釈迦といわれた天台大師も、法華経の研究に一生をついやしていられる。あれほど頭のよい、仏法上善根豊かな天台大師にして、なおかつそうだったのである。ましてや日蓮大聖人の仏法は、釈尊の仏法よりも哲学が深く、理合がむずかしいのである。これを研究しようとする我々は、天台大師と違って仏法上の善根がまるでない、その上頭脳も彼よりも悪いのであるから信じて行ずる以外わかる方法がないのである。よって利益と罰の現実面で判断を下すのが一番の早道である。
 

 くり返していえば、わかったら実行するという態度はまちがいであって、永久にわからないで終るのである。