六、日蓮宗のことを聞きたい

 世間一般では日蓮宗といえば、題目を唱えるものであって、また題目を唱えるものは、何でも皆日蓮宗であるかのように考えている。
 これに属するものは、日蓮宗と称しているものが百とすれば九十九は該当する。
 また日蓮宗といえば身延山が総本山であって、誰でも日蓮宗を信仰したければ、身延山へお参りするのがあたりまえのように思っているが、これは大きなあやまりであって、身延系の日蓮宗、新興の仏立宗などはみな大聖人の教えに反するものに向って唱題し、大聖人がおすまいになられたことがあるという歴史だけの身延に、あたかも教えが残っているかのごとき錯覚を生じ
ているのである。身延離山史を見れば歴然としていることで、日蓮宗と称するなら大聖人の御書により、その教えの要めである三大秘法に照して、かなっておらねば邪教である。
 

 三大秘法とは、本門の本尊と、本門の題目と、本門の戒壇との三つの秘法であり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人の御教えである。
 現在のように種々雑多のものをまつって本尊としたり、お守りしたりして、これに向い唱題しているということは、根本的に大きなあやまりであり大聖人の教えに背いている仏敵である。
 ガラスをいくらダイヤモンドだと思いこんでも、その価値は生じないのである。
「南無妙法蓮華経」の実体に対して関係した時に価値を生ずるのである。大聖人の教えを聞きたいのなら、富士大石寺に七百年来大聖人より日興上人に御付属あり、いらい連綿として血脈相承されている日蓮正宗についてのみ、日蓮宗を正しく知ることができるのである。大聖人の御書により哲理に照らした現象より正邪の区別は判然としている。
 

 看板のみ無断借用している偽日蓮宗と称するものは、大聖人に背いている故に小利益の後に必らず大罰が出、終には生命を弱らせたり一家離散したりして不幸にあえいでいるのである。この正宗の信者は大御本尊の功徳により運命を打開し、歓喜の生活を営んでいる。仏教は勝負であるから正邪は生活に事実として正は勝、邪は負の現象が出るのである。
 

 文証・理証・現証の三観点より、日蓮宗の正邪をきわめれば、正は日蓮正宗ただ一つのみ、他はすベて邪宗であることは明々白々の事実である。