六、大聖人の繪像木像を拝んでいるからよい
日蓮大聖人の御姿を刻んだり、絵にして拝みこれを信仰の対象として、いかにも大聖人を崇め奉ったように思っているのが邪教日蓮宗の通例である。
これは観音の像に向って拝んだり帝釈天の掛軸に手を合せるのと同じ気持で、大聖人を大菩薩様であるとか、お上人様であるとかの考え方によっているのであり、その像の中に大聖人の御命が宿っていると思っているのである。又信心の対象とはせず、ただ尊敬するていどに置物又は掛軸として飾っているものもある。これに類似した型で、甚だしいのは小説や浪花節や画題のモデルとして、偉い坊さんだぐらいに感心している者もあるが、これらはみな謗法である。なぜかなれば御文に「日蓮をあしくうやまわば国亡ぶ」と仰せのごとく、うやまい方が悪いのである。
大聖人は仏でいらせられるのである。しかもその位は釈迦等のとうてい及ぶ分際ではない末法御出現の御本仏様であり、釈迦・天台・伝教等も願求していられることは経文に明らかである。これを知らずして大菩薩であるとか、偉人であるとか、勇ましい坊さんだ位に考えていることは、見当はずれも甚だしいもので、邪宗といわざるをえない。ちょうどダイヤモンドをきれいなガラス玉位にはめたり、国王の威力を泥棒の親分ぐらいに恐れうやまうようなもので、うやまっているように思いながら、かえって下しているのである。
一体仏といわれる方は、御自分の証得した覚を一切の人に分けたいとの御念願に立たれているのである。だから自分を拝めとはおっしやっていないのである。すなわち自分を拝めではなく自分が覚ったその覚をうる法を説かれるのであって、必ずその覚の浅深によって大法、小法を示されるのである。
仏を信じ修行する者は、その御示しになった法を修行するのである。
大聖人は「南無妙法蓮華経」という法をお説きになり、経王殿御返事(御書一一二四頁)に「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」と仰せられて、妙法蓮華経の実体である御本尊を御示現遊ばされ、後後の衆生は、かく修行すべしとて御自身お亡くなりになるまでの三年間を朝夕拝まれて、末法の衆生にお示しになっていられるのである。
故に大聖人を信じ、大聖人の仏法を修行するのならば「南無妙法蓮華経」の法本尊と、日蓮大聖人御自身である人本尊、この人法一箇の本尊である一閻浮提総与の御本尊に向って唱題修行する以外にないのである。これを知らずして絵像等を拝むことは、正法に反する邪教であり堕地獄の因となることが明らかである。
事実調べてみると、真の仏法を知らずして大聖人に関係した小説等を書き、又像を刻んだり画いたりした者は、その直後において半身不髄や原因不明の病気になって、必らずその最後は地獄の相を現じて、すごく悲惨な死に方をしているのである。
これは謗法の厳然たる仏罰であり、知らずに拝む者も同罪である。