五、御眞筆ならなんでもよい
本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇という順序が、大聖人の仏法流布の段階であることは、三大秘法抄に明らかである。
現段階は題目はすでに流布され本尊混乱の時であり、一日も早く富士大石寺の一閻浮提総与の大御本尊に統一されなければならない時がきたのである。
すなわちこの大御本尊の偉大な功徳を身に体験し、その大威力に確信を持った信仰に立たなければならないのである。
この大御本尊に直結した御曼茶羅を拝む信仰でなければ、絶対に功徳もなく、ましてや生命の本質をつかんで仏の境涯に立ち、永遠の生命を確認することなぞは、とうてい望めないとこである。大聖人は在世中、弟子信者に御本尊をおさずけ下さったのであるが、これは一機一縁の御本尊と申しあげるのである。弘安二年十月十二日、一閻浮提総与の御本尊御出現の後は、各弟子信者の手にある一機一縁の御本尊は、二祖日興上人の御手許にとりまとめられた。それにもれた一部のものが、勝手な人々へ移り伝わって今日御真筆として信仰の対象になっているのである。
ただし、これはちょうど電燈にたとえて考えてみると、(御本尊を電球にたとえて申すことはもったいないことであるが)ヒューズがとんで電流が流れてきていない電燈は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても電流が流れてこなければ光が出ないのである。
御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければ何の功徳もないのである。
富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすベて謗法である。
日蓮が魂は謗法の山には住まずと仰せられた大聖人の御言葉があるが、日向・波木井等の謗法により身延山は謗法の山となり、大聖人の御魂は住まわせられないこと明らかな現証を見通され、日興上人は身延の山をお捨てになって、現在の富士大石寺に移られたのである。謗法のところには大聖人の御魂は住まわせられないのである。
大御本尊は、
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(御書一一二四頁)と仰せられてあるごとく、大聖人御自体として拝すベきであるから、富士大石寺にそむく謗法の輩がもつ御真筆の御本尊には、大聖人の御たましいは住まわれるわけがないのである。
そこでもし、このようにたしかな御真筆の御本尊を拝した場合は、大石寺の御法主上人の御手許に移し改めて感得願いを申しあげて、大御本尊に直結した御本尊として御さげ願えばよいのである。
又信仰の対象として一切をささげて南無し奉る御本尊であるから、御山においては御相伝により、代々の御法主上人様お一人が、したため遊ばされるものであり、我ら信者が云々すベきも恐れあることである。
三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照して拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである。「御真筆ならば何でもよい」と思うのは、結局は由緒因縁に暗いというところから起る考え方であって、これは不相伝なるが故に仏法の深義に迷うのであって、無相伝家はみな本尊に迷うということがいえるのである。