四、御題目さえ唱えればそれでよい

 種種御振舞御書(御書九一九頁)に云く「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶベし」と。この金言は何を意味しているか。これについては現今南無妙法蓮華経と唱えている宗教を徹底的に究明してみる必要がある。
 

 ある宗教は釈迦像に対して南無妙法蓮華経を唱え、ある宗教は戒名に、又は鬼子母神に、又は勝手に作成した本尊に、又稲荷にと題目を唱える。対象は各種ばらばらであり、全く仏説の根拠を知ることができない。故に仏道を求める人々は、ただ、「南無妙法蓮華経は有難い」といって一番大切な信仰の対象たる本尊を知ろうとせずして、ついに地獄に落ちてゆくのが現在の南無妙法蓮華経を唱えている宗教の姿である。


 すべて日蓮大聖人の題目だけを盗んだ魔人狂人の所為である。故に御題目だけ唱えればそれで対象はなんでもよいとは絶対にいえない。それらは大聖人を悪しく敬うことどころか、仏説に対するが故に、大聖人に弓を引いていることである。
 

 大聖人の御真意の教は明確に御書によって知ることができる。我々は御書に照らして一点の相違もない「教」によらなくては仏になることはできない。


 御書には、ただ題目だけで本尊はなんでもよいとは、どこにも書かれていない。所詮、大聖人の仏法は三大秘法につきる。結局、他は全部・邪宗邪教の所作である。


 ここに三大秘法の題目でなくてはならないとの御文証を引き僻見を破る。三大秘法とは、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇のことである。


三大秘法禀承事(御書一〇二三頁)に云く、
「此の三大秘法は、二千余年の当初地涌千界の上首として、日蓮慥に教主大覚世尊より口決相承せしなり今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり」
 

 御書に明厳たるように、三大秘法の題目のみが真の題目であり功徳があるのである。                                       
 

経王殿御遮事(御書一一二四頁)に云く、
「日蓮がたましひをすみにそめながして書きて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり、日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」


 大聖人の御生命たる御本尊が根本であるという御書である。それが違っていて、どうして題目だけでよいといえようか。
無間地獄疑いなし


聖人御難事(御書一一八九頁)に云く、
「諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申はじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」


 釈尊の出世の本懐は法華経、天台大師は摩訶止観、今末法に入りて日蓮大聖人の御本懐は弘安二年なりとは、これ一閻浮提総与の大御本尊の建立である。この御本尊に対し奉りて唱える御題目以外の題目はすべて、仏説に反すること明らかなる御文書である。


妙法曼陀羅供養事(御書一三〇五頁)に云く、
「妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字は五字七字にて侯へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり乃至此の大曼茶羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だ弘らせ給はず、病によりて薬あり軽病には凡薬をほどこし重病には仙薬をあたうベし」


 題目を唱える終局は、その対象たる御本尊につきる。正しい御本尊なき題目は無益であり、いな地獄へ行く直道を作っていることである。


三大秘法抄(御書一〇二三頁)に云く、
「大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時にこれを感じて此の法門広宣流布するなり予が年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置かずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し」


 今仏勅に一分もたがわず三大秘法の御本尊に対し奉り、三大秘法の題目を唱え奉るは日蓮正宗唯一宗あるのみである。されば右御書のごとく広宣流布、大聖人の御命令たる三大秘法の戒壇の建立も、血脈つづく日蓮正宗の他に、なにものもなしえないことは、御書に照らして明らかである。