第三章 他の信仰に関心を持つ者に

 一、信心は何でもよいので他宗をけなすのはよくない

 信心はどれでもよいという人は、宗教について全然無智なのである。従って宗教が生活と密接に関係している事実を認識していない。
 そこでこういう人間に対しては、まずなぜけなすのはよくないのか、宗教のことがわかった上での結論かどうかを反問し、宗教に関しての無智を意識させなければならない。


 釈迦出世の本懐は何であるか、大聖人との関係はどうか、仏法に五重相対・四重興廃・三重秘伝など厳密な区別のあることを知っているか。さらに宗教に五綱というものがあり、現在の日本がいかなる宗教を流布すベきかを心えているか。宗旨の三秘とは何か等々。

 

 そして現在の宗派がいかに低級か、すでに無用の長物か又はインチキかを強調すベきである。

 

 因果の理法もわきまえず道徳論の域を出ないようなものは、宗教の名にも値しない低俗なものであり、釈迦仏法などを立てるのは去年の暦と同じで役に立たない代物である。これを使用するから生活に破綻を来すのは当然である。一番いけないのが本物に似せたインチキや仏法で、南無妙法蓮華経と唱える他宗は皆これに属する。

 釈迦は末法の今日の人間を評して云く、「馬鹿」と。

 科学は進歩し原水爆弾まで製造されるまで人智は進んだ。馬鹿とは何ぞと反問するであろうが、釈迦に代って説明するならば、馬鹿とは宗教に関してのことである。従って幸福の何たるかを知らないのである。自分たちで作った原水爆弾に自らの生命の恐怖を感じなければならない現今の世相を見れば、すぐわかるではないか。仏教の「仏」の字さえ死んだ者だと解する愚者はいくらでもいる。


 次にこれらの邪宗がいかなる害毒を流しているかを、事実をもって証明すべきである。
 

 個人の不幸・家庭の破滅・社会の悲劇、これらはみな根本的に邪宗教に根源をもち、逆にいうならば正法を誹謗したり正法を知らない罪より起こっているのである。この事実については幾多の生々しい事件が数かぎりない。敗戦亡国という国家の一大悲劇は、いかなる原因によるか。軍部でもない東条でもない。大聖人の仰せたる立正安国論(御書一七頁)によるならば、
「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばあるベからず恐れずんばあるベからず」と。我らも又、他宗の邪は邪といわなければならないし、火事や泥棒よりも邪宗の害毒を恐れなければならないのである。
 

 国家は人間の生存権を認めるが、その罪悪を容認しない。しかもその程度が極悪である場合は生存さえ許されない。宗教を認可したからとて、その害毒を許すわけはない。ただ一般大衆と同じく当局においても邪宗の害毒は余りに大きくて認識し得ないのである。


 仏法の概念も知らないで、又このような厳粛な事実にも気づかないままで結論を下す非常識を責めなければならない。
 

 サギをけなしてどこが悪いか、放火犯をだまって見のがすか、隣家に泥棒が入ろうとしているのを見て見ぬふりをしていてよいか。
 

 大聖人の仰せを開目抄(御書二三六頁)に拝すれば、
「問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に、あだまれたる・いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るベし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、『仏法を壊乱するは仏法中の怨なり・慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり・能く糾治せんは是れ護法の声聞・真の我が弟子なり・彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり・能く呵責する者は是れ我が弟子・駈遣せざらん者は仏法中の怨なり』等云云。
 夫れ法華経の宝搭品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに・父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然いたはしとも・おもはで・末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき・狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに・父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子重病を灸せざるベしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり』等云云。日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」


 物事はすべて認識してから評価すべきものであって、無認識の評価は禁物である。宗教の本質、日蓮正宗の何たるかも知らず、漫然と「他宗をけなすのはよくない」と断言するのは軽卒きわまる大失言ではないか。


 世間のしきたりに反すれば、人のそしりを免れず、国法に逆えばその罪の軽重に従って罰せられる。仏法に違背する罪は法罰厳然として何人も逃れることはできないのである。