八、御利益があるということが納得できない

(一)「信仰は何のためにするか」
 これに答える一般人は「心のよりどころのため」とか「聖なるもの、浄らかなものへ近づかんため」とか「真理を求めて」とかいう。
 又一方には「自分の罪を消していただくためで利益を望むなんてとんでもない」とか「先祖が救われれば」とか「善いことをすれば気持がよい」とか答えるのが普通である。これは宗教の本質を知らない者が信仰を精神修養と同じと考えるところからくるのであり、又この世をあきらめた考えからくるものである。真の宗教は幸福生活の指導であり、一切衆生の苦を抜き、楽しみを与えるのが仏の御真意である。


 仏は御自分の覚の境涯で一切衆生を我が子とごらんあって、これを化導なされた。法華経においても妙法蓮華経を唱える功徳、御供養の功徳、仏法修行者を親切にする功徳、折伏の功徳等を説かれてあることは明らかなことで大聖人の御書にもいたるところに功徳をのべられてある。


(二)我々の生活には利益と罰があるのが実相である。損も得もしない生活はあるはずがない。

 信仰生活においても人類の生活はたえず最高の利益を追って活動する。無意識にせよ意識的にせよ、たえず幸福を求あるのが生命の本質である。この実践活動を指導するために、各宗教には仏とか神とかの対境があるのだ。この対境の善悪・大小・高低によって、これに対する各人の生活に利益と罰の大小が現出するのである。

 従って罰と利益は表裏の関係にあることはいうまでもない。拝んで利益もなく又罰もないものを何のために拝む必要があろうか。「利益のあることがわからない」という者は自分の生活に真剣でない者、又は向上心の低調な者、自分をあきらめきっている利己主義者のいうことである。

 

 生命を旺盛に活動させずにおられない者、真実の人間性に生きんとする者は、生活に遊離したこうした考えにあきたらなくなるはずである。

(三)よく邪宗教で「病気がなおる」とか「金がもうかる」とか「家が平和になる」とか「落し物がみつかった」とか実にくだらない利益を看板にして人を集めているので、利益を説く宗教は低級のように感じられるのであるが、利益にも大小のあることを考えなければならない小さな利益に迷って大利益を失うのが邪宗の姿であり、小さな罰で大きな罰を消し、大利益を与えるのが正しい信仰の利益である。
 

 我々が幸福を願う時、幸福をつかむ絶対条件は、各人の強い強い生命力をその根本としなければならない。我々の生命の中に仏という生命活動を湧現させる時こそ、幸福の境涯を感ずることができ、人生の苦難を受け切って行ける力が生れるのである。

 

 正しい宗教によってえられた利益はいうにいわれぬ偉大な功徳であり、邪宗教による魔の所為とは大いな違いがある。無限の生命力こそ仏法の利益であり誰人もこれを求めなければならない。


(四)日蓮正宗の偉大な大御本尊に接する功徳は、偉大な罰と利益を痛感せずにおられないことである。

 今我々が清浄なる眼をもって、大御本尊を拝するならば、向って
  右の御かたに「若悩乱者頭破七分(罰)」
  左の御かたに「有供養者福過十号(利益)」
 の二大法則が、大御本尊の御声として御説き出されていることを、聞き奉らねばならない。もしこれを否定する者は堕地獄不信の徒である。
 

又日寛上人は、
「此の本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用あり故に暫くも此の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば
祈りとして叶わざるなく
罪として滅せざるなく
福として来らざるなく
理として顕れざるなし

と仰せあるのである。