五、信心はこりごりだ

(一)、「あつものに懲りてなますをふく」ということを御存知ですか。貴方は今までいろいろな信心にこって不幸になったので、もうコリゴリだといっているが、一体誰が悪かったのであろうか。

 仏は三千年の昔から、この道以外にないと一本の道を示されているのに貴方は悪人を信用して勝手な脇道へそれてしまい、しかも迷ってみれば道を作った人が悪いと仏を恨んでいる。
 日蓮大聖人は撰時抄(御書二五七頁)に次のように仰せになっている。「人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるベしや良医・薬を病人にあたう 病人嫌いて服せずして死せば良医の失となるか」
 宗教に無智な貴方は一寸つまずくと、すぐたしかめもしないで人の口車にのって、フラフラと迷の道に入ってしまう、そこには少しも自己もないし、正か邪かを判断できる鋭い直観もない。そうしてはじめて正しい仏法に会えば、逆に耳をふさいで聞こうとはしない。その生命の濁りが貴方の判断を狂わせ、生活を不幸におとしいれたのである。まず落ついて正しい仏法を聞いてみる必要があるであろう。


(二)、宗教には良い宗教と悪い宗教がある。
良い宗教とは、
1 教の正しいものであって、仏法ならば釈迦は法華最第一と説かれ、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経を、末法の法華経として現され、この教のみが一切の衆生の苦しみを救うものであると御本尊を御建立遊ばされたのである。
2 末法の邪智謗法の者を救う教は、もっとも強烈な注射、「機に合ったもの」でなければならない。
3 時に合った教。今は正法像法とは時代が違う。末法に残された是好良薬こそ大聖人の仏法である。
4 国に合った教。すなわち戦いに敗れたりとはいえ、高い大乗仏教に縁ある日本民族を指導できるものでなくてはならない。
5 しこうして教の流布された順序次第からのベれば、当然大聖人の仏法に帰するのであり、又その仏法は三大秘法独一本門の戒壇の大御本尊様でなければならないのである。
 貴方はそのいずれにも合わない宗教を信じて、釈尊にそむき奉り大聖人にそむき奉っていたのであるから、不幸になるのは当然である。


(三)、宗教にコリゴリだという貴方は今度無宗教になればいいかというに、さわらぬ神にたたりなしの言葉の通り、間違ったものをやるなら止めた方がしあわせであるが、善い神、善い仏にはさわらねば不幸である。
 貴方はこの世で始めて邪宗に縁を持ったように思うであろうが、貴方が現在邪宗によって悩まされるのも、その生命の本源にかえれば、その流転の途上、常に邪宗教に関係して正法を誹謗して来たのであり、しかも又この世で間違った宗教をやって罪を重ねてきたのである。
「一切の不幸は邪宗によって起る」と日蓮大聖人は厳しくお諫めであるが、貴方の生命は邪宗によって汚れに汚れ清らかな強い生命力を失ってきたのである。
 貴方の生命は、常に怒り、貪り、嫉妬、愚痴によつて占領され、その生活はそれらによって支配されてきた結果、まったく宇宙のリズムとは合わなくなり、常に不幸を感じ、その苦しみに悩まされ通しだったのである。そうして濁った貴方の生命は、今までやったものを手離したぐらいで、浄化されるわけはないのである。
 その罪深い貴方の生命を元々の清らかな生命、あらゆる現象に順応できうる強い生命力に立たせるものこそ仏法の真髄であり、日蓮大聖人の仏法によってクリーニングする以外にはない。「衆罪は霜露の如し」偉大なる仏の御力は貴方の悪巣をすべて滅し、なお幸福な将来を約束している。毒を薬にかえ、汚き糞を黄金に代えるのも、貴方の信心一つにかかっている。かたくなに古いものに執着して、毒と薬を同じに考えて、受けられるべき幸せを失ってはならないのである。