四、宗教は迷信である

(一)宗教は迷信であるとの結論は一応正しい。それほど現代の宗教界には迷信が横行しているからだ。しかし貴方の結論は少ない貴方の経験や見た範囲で、しかも自己流に判断を下しているのであって、貴方の知らないところに真の宗教のあることを知らなければならない。全部を調べたのでもないのに、すベての宗教は迷信なりと断定するのは早計であるし無認識の評価である。
 まず貴方は宗教に関しては何も知らない、無智であるというところから出発して、正しい宗教を認識しなければならない。
 

(二)貴方がいうまでもなく、敗戦後の宗教界は迷信の氾濫で、踊る宗教やら璽光尊のような気狂いじみたものを生み出した。あるいは狐や白蛇をまつり、生命判断や手相や人相や占をやり、話される教義はといえば.コップにあぶ
くが立てば先祖の成仏していない証拠と思え、本部の便所掲除を菩薩行などと、子供だましのような愚劣な教が説かれている状態である。これらが迷信であることはいうまでもない。しかし又大衆の中にとけこんできた占い宗教、禅・念仏・真言・キリスト教・神道等が、新興宗教と少しも変らない迷信であることは御承知ですか。


 迷信とは道理に照らして理窟にも合わないことを信ずることである以上、西方十万億土の彼方に極楽浄土があって阿弥陀が住む、死ねば天国へ行ける、この世は神が作った等、そしていずれも実生活に移してみれば、みな経文通りの結果は生じないのであるから、こういう古い宗教もみな迷信であることに変りない。

 

 キリスト教信者にいわせれば、宗教は理屈で論ずるものでなく神秘的なものだというであろうが、我々の生活は科学を離れては一日もなりたたない。実生活は科学の追求でありながら、教えは科学の矛先を逃れようとしているのであるから、教えと生活の間に溝があり、これらの宗教には絶対に我々の幸福生活を指導する力はないのだ。


(三)貴方が絶対とする科学とは何であるか。いわゆる物質文明の科学は我々の生活に欠くことのできないものであり、その発達は我々の生活水準を次第に高めている事は事実である。その功績は大いに認めるとして、その物質文明は完全に人生を救いえたであろうか。
 

 あの現代科学の粋といわれる素粒子論は、いかに悲惨な結果をもたらしているか。いかに医学が発達しても開眼のできない盲人の悩みは救いえない。ましてや人生の広く深い悩みを解決するすべはないのだ。むしろ科学と科学の争いがますます輪をかけて地球上に拡がり、我々の不安は増大しているではないか。

 

 どこに誤りがあるのか。それは科学の成果である物質文明を絶対なものと信じ、それを使う人間の指導を忘れた結果である。科学は指導すべきものであつて指導さるベきものではない。たしかに科学は客観世界の追求で長足の進歩をとげているが、外界だけをどんなに掘り下げても、それだけで幸福が湧くものではない。なぜなら生活は生命の現われであり、生活を行うもの自体の生命が究明されなければならないからである。
 

(四)科学的とは因果の法則になりたち普遍妥当性を持つことである。我々の生活を科学的に見つめようとするならば、生命の実態を知らねばならない。


 その実態は厳然たる因果の法則によってなりたち、この世の悩みも苦しみも、仏法の永遠の生命観によってこそ、始めてはっきりとその原因がつかめるのであり、この仏法の生命哲学だけが、もっとも根本の因果律である。
 又その哲学が実践に移されるや、たちまちはっきりと現実の証拠が生活の上に実証され、万人が万人、時と処と人を問わず、論理通りに結果が現われて狂いがない。この仏法の真髄こそ最高の文化であり、いわゆる科学を指導しうる最高の科学である。


(五)科学を尊重するという貴方が科学を使いこなすこともできず、いつその犠牲になるかも知らず悟らず、現実の生活は悩みだらけでありながら運命だとか偶然だとかで片づけて、そのよって来る所の原因を追求しようともしない。あなたのような方こそ迷信者と呼ぶべきである。小さな因果に一喜一憂、あてもない幸福を夢みて、その足元から崩れていることを意識しない貴方こそ非科学的な野ばん人であるといえる。

 そうして貴方がボンヤリしている間にも日本中は次から次へと惨事がくりかえされ、又同じ東洋民族が血の涙を流しているではないか。日本一国はもとより、世界が謗法の国土と化している以上、どんなに個人の幸せを求めてもムダであり、事実貴方の家庭にかえって考えてもみんなが苦しみ悩んでいるはずである。個人を救い家庭を救い社会を救う、力ある宗教こそ求めねばならない。


(六)結論として、道理にかなった、しかも力ある宗教は、仏法の真髄 ― 末法に残されたたった一つの大白法、日蓮大聖人の御教による以外にはないのである。低いしかも挟い料簡をすてて、御本仏日蓮大聖人の御確信に無条件で従うべきである。