三、信仰に反対である

 信仰に反対する人には大体次のような型がある。

 

(一)虫が好かないから嫌いだ

(二)信仰に頼るのは弱い人だ。

(三)すでに信仰生活を見聞してあきれている人。

(四)ひまがないからできないという人。
 

(一)の虫が好かないという人は、好き嫌いで価値判断している人で、好き嫌いに迷って利害善悪を忘れる愚かな人である。考えてもみよ、世の中に苦い薬が大好きで飲む人は、おそらくいないであろう。薬は苦くて嫌いだが病気をなおしたい一心で顔をしかめて飲むのである。

 信仰が趣味や娯楽や単なる精神修養のためにやるものなら、好き嫌いで取捨してもさしつかえないが、自己の生活革命であり、真の幸福生活確立の唯一の道であるから、命がけでもやらなければ損なのであり、信仰しないということは、世の中のためにも不幸この上ないことなのである。自己の永遠にゆるがない幸福のために、社会生活をより楽しくするためにやるものであって、決して好き嫌いで判断してはならない。しかし一度経験してみるなら誰でも好きにならざるをえないものである。


(二)の場合は、金があるとか、社会的な地位や自分の学問に自信を持っている人に多いが、一朝事ある場合にはすぐ崩れてしまうはかない自信である。

「妻は病床に臥し子は飢になく」という環境に立って、なお天を恨まず、自信満々、一切衆生を導かんという境地に立てるかどうか、自分の事業に蹉跌を来した場合に果して自分は強しといえるであろうか。どんな場合にも崩れることのない真の安心立命の境涯、難局に際してなお不屈の自信が湧き出でる唯一の正法がある。まことに仏法に比ベたなら、その人の確信・自信なんていうものは取るに足らないものである。


(三)にはすでに信仰生活をしてコリゴリしたために反対する人がある。世の中に今存在するほとんどの宗教が邪宗であるから、これは当然のことと思うが、宗教を選ぶ物差を知らないためにおきた悲劇である。

 真の宗教とは、深い哲学を有し(現証)仏の経典に厳然と則り(文証)生活がハッキリと好転し変化が意識できなければならない(現証)ものであり、この物差ではかる時は、富士大石寺日蓮正宗以外は全部邪宗教であり、害毒を流すものであることが判明する。故に、邪宗教でコリた人ほど大悪を退治しうる唯一の宗教である日蓮正宗の信仰を一刻も早くする以外にないのである。


(四)にひまがないという人は、信仰に反対する口実のためにそういうのである。忙しくても、ひまであっても、生活を離れて人生はない。仏法は生活法である。忙しければ忙しい中に、暇であれば暇な生活の中に、幸福生活を実現してゆく根本の法なのである。

 

 以上申しのべたように、仏法に反対する者は、知っても知らなくても大悪となり、大罰の不幸を感ぜざるをえなくなるのである。故に、反対する理由はいずれも成立たないと断ぜられる。