第二章 信仰に反対の者に

  一、日蓮正宗はなぜ昔から弘まらなかったか

「日蓮宗なら身廷山が本家だ。富士の大石寺なんて開いたこともない」「そんな良い宗教ならもっと弘まっているはずだ」「キリスト教は世界的に弘まっているのだから……」
 

 こういう愚かなことをいって信心に反対する人がある、その考え力を突っこんでみれば

 

(一)今まで自分が知らなかったから、

(二)エライ人たちがやっていないから、

(三)信者の数が少ないから、

 

「だからこの信心は疑わしい」というような、およそ仏法に暗く、また世間的にも、もつとも頭の悪い、物の道理をわきまえない考え方である。そういう無智もうまいな者が多いからこそ、日蓮正宗はなかなか弘まらなかったのである。
 

(一)(二)については論ずるまでもない。自分が知らないこと、理解しえないことは、全部「正しくない」とか、「ありえない」とかいえるものかどうか。世の中の現実を静かに見つめてみよ。
 また、「いわゆる有名人、権力者がやっているなら信用できる」というならば、上一人より下万民まで国をあげて、天照太神を拝んで神風が吹くことを信じて、我々自身が敗戦の憂目を見たことは、いまだに忘れられないことだし、昔、後鳥羽上皇が邪宗真言によって、北条義時の調伏を祈って、かえって身を滅ぼした事実は、歴史に明らかなところだ。


(三)について「信者の数が多ければ信用できる」というならば、昔から弘まっている邪宗日蓮宗や、世界的に流布したキリスト教、現在もっともはびこっている天理教や立正交成会等の新興宗教が正しいといえるのか。それを信じて真に幸せになった者があるかどうか、よく調べてみよ。世間のことでも、数の多いものが尊くて、少ないものが卑しいか、大勢の者の意見が正しくて少数の者の意見は必ず間違っているというのか。

 地球が太陽の周りを廻っていると主張して国中の迫害を受けたコペルニクスの考えが間違っていたかどうか。大聖人様はこのことを、「世の中に賢善の人は希で、愚悪の者は多い、またダイヤモンド等の宝石は尊いが少ない。瓦や石コロや土等つまらないも
のが数多くある。あなたのような考えでゆくと、宝石をすてて瓦や石コロを尊重することになるではないか、仏法も正理を根本として判断すべきで、信者の多数によってきめるべきではない」(御書四九三頁取意)と戒められているのである。

 

 地球は平らであると信ずる者が何人いても、事実丸ければ、その考え方は誤りであり、信者の数の多少にかかわらず、邪は邪であり、正は正である。
 およそ仏法・世間法をとわず少数の聖人・賢人の唱える真理や正義は、愚人・悪人の多い当時の世に迎えられず、信じられないが、必ず時がくれば、正義は世に現われ、すベての者が信じないわけにゆかなくなることは、古今東西の歴史が示している通りである。支那の聖人といわれる孔子も、印度の釈迦もそうであったし、日蓮大聖人もそうであった。ましてや、末法濁悪の世と仏がいわれた今の時代に、正法中の正法、世界最高の大聖人の生命哲学を奉ずる日蓮正宗が容易に弘まらなかったのは、理の当然である。
 大聖人滅後七百年間、邪宗・邪義がはびこって、正法・正義は世に知られなかった。その結果、日本民衆が不幸のどん底におちいり、みじめな敗戦・流行病・経済苦・家庭不和等々、さまざまの苦悩にあえいで、唯一絶対の救いの道を切実に求めるようになったこの時、創価学会の折伏によって、一人一人が邪宗の害悪に目ざめ、大御本尊様の功徳を知ることができるのである。
 これは、ひとえに、「時を待つべきのみ」との大聖人の御遺命のままに、七百年間、清浄無垢に厳護された日蓮正宗の正法が、今その時をえて、朝日が昇るように弘まりゆくものであることを知るべきである。
 まさに大聖人の予言のごとく、太陽が東から西に行くように、日本から朝鮮、支那、印度、さらに全世界へと弘まっていくのは、もはや現実の姿となってきているのだ。