六、さわらぬ神にたたりなし

 世間で一般に神だとか仏とかいっているものが、一体自分の生活とどういう関係があるかもわからないで、ただ習慣的に神だとか仏だとかいうと何となく有難いもののように考えて信仰する。その結果なぜだかわからないが、色々不幸なことも起る。それが信仰したためのようにも思えるし、確かにそうかそれもはっきりしない。まあまあそういうものにかかわらない方が無難だという考え方が、この言葉である。これは全く宗教というものに無智であり、信仰ということが生活とは全く別物のように考えることから起る。


「信ずる」ということは普通私たちが生活の上でいつでもやっていることで、信ずる相手を絶対と信じて疑わなければこれは信仰である。日常の生活の中で相手かまわず何でも信ずればいいかというとそうではない。立派な聖人・賢人、たとえば二宮尊徳のような人を信じて、その人のいう通りにやれば、自分も二宮尊徳のような人格に近くなり、反対に悪人を信ずれば悪人になる。詐欺漢を善人と思って信ずれば、後にはだまされて不幸な目にあう。一級酒だと信じてメチルアルコールをのめば命を失う。自分を不幸にする相手を、幸福にするものと信じこむことが禍の因になる。何でも信ずればよいという考えは誤りである。これは誰でも無意識のうちに日常実行していることだ。

 世の中には数多くの宗教があって、それぞれの数多くの信仰の対象を教えている。これが本尊である。誰でも幸福になるために、それらのものを信仰するのであるが、事実それらの本尊が自分を幸福にするものか、なぜそれを信仰すれば幸福になれるかという、もっとも大切なことを、全くわからないで、ただ盲信しているのが一般の実状である。それらの本尊が自分を不幸にするものだったら大変である。


 ところが、事実、世の中にある色々な本尊はみな私たちを不幸にする根源なのだ。言葉の上で、神だとか仏だとかいっているが、その実体は孤であったり、蛇を拝ませたり、勝手な人間が勝手に書いたお札などで、神や仏の実体とは、まったく似ても似つかぬ別物である。一般の人々の考えるような神や仏とかいうものが、この世の中にあるはずはない。こういう人々の無智を利用し、甘い言葉で人をだまし、金もうけをしようというのが、今たくさんある邪宗教の実体である。そういう邪宗教の本尊を拝めば、不幸になるのは当然であって、「さわらぬ神にたたりなし」などというのも、世間の宗教がみな邪宗教である証拠である。

 さて、それならば、宗教には無関心でよいか、信仰など無用で、さわらなければよいか。それには自分自身の生活が真に幸福であるかどうか、ふりかえって見る必要がある。今の世の中に幸福な人がいるはずはない。

 

 真の幸福生活法を教えるのが正しい宗教であり、それが仏法なのである。その正しい本尊によってのみ真の幸福生活が実現できるのだ。これを教えられた方が仏であって、日蓮大聖人が現代の仏であらせられる。日蓮大聖人が、正しい御本尊、私たちの幸福の源泉である、ただ一つの御本尊を御建立になったのである。これがほんとうの仏の御実体であって、これ以外のものによればみな不幸になるのは疑う余地のない事実であり、現在のあらゆる不幸も、みな大聖人の仏法が厳然とありながら、信じないできた結果である。


 正しい本尊を信仰すれば幸福になり、邪宗教の本尊を信仰すれば不幸になる。宗教は私たちの生活にとって、毒と薬との関係にあり、幸福・不幸の根本問題であることを知らねばならない。


 この故に邪宗教には、さわらない方がよいが、真の立派な宗教にさわればさわるほど良いのである。日本に唯一の日蓮大聖人の真実の仏法に、さわらない者は愚かな者であり、この人生において大損をする者である。