四、信心すれば幸福になるとは考えられない

 まず幸福とは何か。我々の生活には色々の願いがあり、美しいもの利益になるもの善なものを求めて生活している。この願いがかなって満足することを幸福というのである。その願いが大小様々であるのと同じく、幸福も又大小の段階がある。
 さて信仰しても幸福になるとは考えられないという人は、正しい信仰を知らないから信仰と生活とかけはなれたものと考えている。
 このような人は生活上の美利善は宗教とは関係がないと考え、かつ信仰とは精神修養であり、どんなに生活が苦しくても精神的な安心とか精神的な自己満足をうることぐらいに考えている。こんなことは道徳教育や慰安や娯楽や趣味の範囲であって、信仰ではないのである。


 又邪宗教に染ったり邪宗教を見てきた人も、信仰では幸福になれないといっている。しかし葬式や法事にだけ役立っている禅や念仏は、もちろん腐った宗教であり、新興のインチキ宗教も科学に反し因果も道理も無視しているから幸福にはなれないのだ。すなわち世間にありふれた宗教は、経文に照らしても道理の上からもみな間違っている宗教であるから、現証としての生活も幸福になるどころか更に不幸のドン底へおちて行くのである。信仰すれば幸福になるということは、真実にして最高の宗教にのみいえることである。


 魚屋が魚を売り、農夫がお米を作り、工員が工場で働いて生活しているのは個人としてみれば利の価値の創造で、この利の価値の獲得の大小はその人の幸福を決定する。美味しい物をたベたり、きれいな着物をきたり、音楽を楽しんだりすることは、美の価値の創造であって、この価値の大小によって又幸福の大小がある。又社会に美や利の価値をおくることは善の生活であって世の中の幸福のためには絶対に必要である。


 このような価値の創造は各個人の生命力に根元をおくものである。生命力が強ければ強いほど人は幸福になりうる。そしてこの生命力は修養や邪宗教によっては絶対にえられない。ただ最高唯一の宗教によってのみ、強くかつ清らかな生命力が湧現してくる。故に真の宗教による時だけ、哲学や修養等によってえられない本源的生命力が旺盛になって幸福がえられるのである。