三、信仰する程の悩みがない
悩みは必らずある。ないというのはウソであり、又自分の悩みをみつめられない盲のいうことである。
日本全国が原水爆の恐畏、経済の不振、復雑な社会問題等の禍中にある時に、自分だけがただ一人幸福で何の不安もないということは絶対にありえない。見よ! 近所隣りや町々に、生活や病気や家庭の不和で泣きわめいている者が、いっばいいるではないか。さればこそ日々の新聞では詐欺・強盗・殺人・自殺などと、血なまぐさい事件が、たえず報道されているではないか。
外面から見るとあの家は幸福だと思える家もある。しかし一度立ちいってみれば、お金に困らなくても親兄弟や夫婦がけんかばかりして悩んでいたりし、病人がなくて一家そろって健康でも事業に失敗して路頭に迷ったり、親がりっぱでも子供が不良だったりして、今を時めく大臣や代議士の家庭でも娘が家出して転落していくほどの悩みがあるのが現実なのだ。財産ができて生活が豊かになる喜び、病気がなくて健康で働ける喜び、立身出世して名誉地位をえた喜びというようなものは、天界の喜びといって、これは必らず崩れすたれるのである。三日天下は極端だが、どんな幸福や安心でも何年何十年と続く例はほとんどない。今日は幸福そのものの若いお嬢さんが、はてはよぼよぼの婆さんになって邪魔もの扱いをされているではないか。これは決して他人ごとではないのである。まして新聞に報道されるような大不幸が、いつわが身にふりかかってこないと誰が保証できるだろうか。
ただ飯を食って子供を生んで死ぬだけなら犬や猫と変りがない。真に人間ならば、さらに自分の幸福を、一家の幸福を、社会の幸福を建設するために道を求めなければならないのである。