二、信仰の必要を認めない

(1)科学に頼つて信仰を否定する者
 誰しも幸福を願わない者はない。この幸福は物質方面と精神方面との二つに分けて考えることができる。この二つの面についてみると物質方面の考察から我々の生活に幸福をもたらそうとするのが科学の世界である。

 

 事実我々の生活の周囲にはこの科学の力によってえられる幸福が大きな部分をしめ、科学を否定した生活の幸福はほとんどありえない。そこで科学万能主義になり生活の一切を科学の力によつて解決できるという所まで科学の力を妄信することになる。しかし科学の力には限りがある。

 

 なぜかといえば科学の出発点は我々の生命の外界の現象を研究するということにある。故に外界をいくら窮めても生命自体の内面的悩みの世界には手のつけようがない。

 汽車ができ、飛行機がとび、原子力応用の世の中になっても、不幸の子を持つ親の悩み、父母に別れた子のなげき、むさぼり、いかり、やきもち、頭の悪さなどをどうすることもできない。ましてや、死に対する問題にいたってはなおさらのことである。

 

 ここに宗教の必要があり、ここに宗教の出発点がある。宗教は各人の生命の内面問題の世界へ真理を求め自己を掘り下げて行く研究である。自分の生命ほどわからないものはない。このわかっているようでわからない自分を照らし、偉大な自分をそこに発見するのが宗教である。

 

 我々の幸福は生命と外界との関係から生ずるもので、自分がはっきりしなければ本当の幸福はわからない。幸福の反対は不幸で、この不幸の生れる原因を知れば幸福になるのである。
 

人類の不幸はどうして生じたかを、宗教の極理に達した日蓮大聖人の御言葉によって知るベきである。


(2)良心や信念によつて否定する者
 宗教を否定する者は、神も仏もないという考えを主張する。それではその人の生活のよりどころは、どこにあるかといえば自分を信じているのである。自分の良心とか信念とかに生きているというのだ。

 

 しかし良心とか信念とかいうものの内容は、その社会の環境から作り出されて行くもので、各人の生活が多様であるごとく良心も信念も多種多様である。従って良心や信念に生きることは非常に危険なことである。

 

 生活の目的自体に誤があれば、結果は不幸におちいるのである。大聖人が「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と仰せられているごとく最高にして最大なる善、「心の師」となるものを示し、これによって正しく自分を照していける心の規準を示すのが仏法である。


 自己の生命の実体を知らない者が、そのあいまいな自己自身を信ずることは危険であり幸福をえられるわけがない。
 故に仏法はこの頼れるようで頼れない自分を、どう見つめきるかの問題を取扱かっているので、誰でも頼るベき真実の自己を知らんとする者には必要なのである。