第三節 折伏の大利益
 
 成仏ということは永遠不滅の幸福境に生きることで、これ以上の幸福、最高価値はありえない。この成仏の最直道が折伏である。確乎不動の信心に立って不自惜身命の境地にすわり折伏を行ずるなら、必ず成仏するのである。
「現世安穏、後生善処」とはこのことをいうのである。
 

 折伏は前述のごとく本仏日蓮大聖人の使である者の行であるから、御本仏の冥々の加護が日常の生活に現われると同時に、折伏の功徳によって強き強き生命力が溢れ出てきて世の中のことを処するに勇気が出るのと、御本尊を信ずる信力は智慧と化するので、この三拍子そろって日常生活が改まっていくのである。これが現世安穏の姿で又折伏が成仏の最直道であり、必ず成仏するということを知る証拠である。証拠は仏法の最肝要の条件である。
 折伏を行ずると必ず悪口され憎まれ嫌われるものである。

大聖人が曾谷殿御返事(御書一〇五六頁)に仰せには

「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」と。
 こちらでは謗法の者の迷蒙を啓き仏果をえさせようと努力するのであるが、先方はそうは聞かないで忠言耳に逆うのである。故に憎まれるのだ。この時は折伏を行ずる者は、過去世の謗法の罪がこの仏法の実践によって消えて行くのだと喜ばなくてはならない。
 信仰してもしなくても丈夫な者、金持な者は沢山ある。現世の部分的な幸福条件を備えた者はいる。ただ成仏の境涯でないから絶対的な幸福とはいえない。又一方には不幸な条件をも持っているのが現実である。これは過去世からの宿命である。この不完全幸福の状態を脱却して完全にして永遠の幸福境涯に転換する宿命打破の大仏法であるから、折伏という実践過程に種々なる難をこうむるのは喜ばなくてはならない。なぜならもし自分が今貧乏だとする、貧乏は過去世の宿命である。しかるに折伏を行じて「お前が貧乏でそれで功徳があるなんてなんだ、お前が貧乏人じゃないか」と馬鹿にされたとする、そのことによって過去世の貧乏の因は今日の縁によって、早くその果を減じ、悪口が多ければ多いほど罪を消して、金持の境涯へ宿命の転換をはかれるのだ。このように妙法蓮華経によって種々難をうける時には、過去の重罪を滅して今世の悪運を払い幸福へと転換するのであるから、日蓮正宗を信ずる者は折伏によっていかなる難があっても恐れてはならぬ。
 このことは大聖人は佐渡御書(御書九六〇頁)に次のごとく仰せである。
「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによって一時に聚(あつま)り起せるなり、譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におはせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起(きそいおこる)が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、法華経には『諸の無智の人有り悪口罵詈(あつくめり)等し刀杖瓦石(がしやく)を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向って乃至数数擯出(ひんずい)せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀(きようき)の四衆の如し人は替れども因は是一なり」 以上のごとく大聖人も、強き折伏によつて過去の重罪をお消しになる姿をお示しになっていらせられる。我々凡愚はただ大聖人の仰せのごとく、折伏によって過去の罪を消して宿命の転換をはかる以外はない。


 このように三種の折伏による大利益を実証せずして、日蓮正宗内の墓檀信者と称する信者たちは、謗法の神礼をはったり神棚があったり、とんでもない本尊をおいたりする。又折伏を少しもしない。これらの信者は何の功徳もないばかりか逆に法罰仏罰を蒙っている。このことをよく勘えて見られたい。大聖人は曾谷殿御返事(御書一〇五六頁)に「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるベしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつベし・うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり」
 信仰によつて利益をえんとすれば、折伏以外にないことを知るベきである。