第二節 折伏は難事である

 折伏は仲々やさしくはない。五濁悪世といって、大聖人の仏法の時はよい人間がいないのである。五濁というのは、一に劫濁といって時代自体が濁っていること、二に衆生濁とは、いろんな人々はみな個人主義で自分以外のことを考えるゆとりのない人々のいること、三に見濁とはどの思想も正しく人生を益するものがないということ、四に煩悩濁とは、人みな悩み多く慾ばり
で怒りっぽくてそれで間がぬけているし、五に命濁といって、生命力が弱り濁りきって病気や早死の者が多い時代である。

 

 かように、どうみても立派な人がいない上に、人はみな正法にそむいているから邪智で邪義でなかなか正しい教を聞こうとしないのである。あたかも威音王仏の像法時代、不軽菩薩の時のように、又は大聖人のように、みな大哲理をとき慈悲の権化である人をば石で打ち、杖でなぐるというのが普通の姿である。であるから釈尊もこの点をよく知っているが故に、末法で妙法蓮華経を説くのは非常にむずかしいと次のように予言している。
 

「あらゆる経典は沢山あって、これを説法することは大へんなことのように考えるが、それは難しいことではない。又こんろん山を宇宙になげとばすことも難しいということではない。又足の指さきで三千世界をうごかして他の国になげとばすのも、むずかしいことではない。有頂天に立って大衆のためにたくさんの経典を説法するのもたいしたことではないが、悪世の中で南無妙法蓮華経と唱えることは前の四つのことより出来がたいことだ。又ある人が手に虚空をつかんで遊行することはたいして難事ではない。しかし他人に南無妙法蓮華経と唱えさせることは大難事である。又大地を足の甲において梵天に登ることも易しくできるが、悪世において南無妙法蓮華経を身口意の三業に読むのは、しばらくでも大難事である。又たとえば乾(かん)草(そう)をせおって火の中に入って焼けないようにすることも難事とはしないが、悪世の中でよく南無妙法蓮華経を受持して一人でも折伏することは、難事中の難事であり、出来がたいことである。又八万四千の法蔵十二部の経を人に説法して聞く人をして六神通という通力を得させることも、むずかしいことではないが、末法において折伏されて、南無妙法蓮華経の意義を知ろうとすることは、これ又大変な難しいことである。もし人があって千万億無量無数の人々に説法して六神通という通力をとり、又阿羅漢という位になる利益を得させるということは出来ないことではないが、悪世において南無妙法蓮華経の大御本尊を拝み奉り広めることは最大難事である」と。

 これほどの難しい事は並大ていの者のできる事ではないから、薬王菩薩や薬上菩薩や、みろく菩薩・観音菩薩等の迹化の菩薩はその力も勇気もないので末法には出現しない。出現したところで五濁の悪世の凡夫を化導することはできない。そこで御本仏の弟子たる地涌の菩薩が、日蓮大聖人の弟子として出現し過去の約束を感じ未来の果報を楽しんで折伏の行にいそしむのである。
 故に大聖人が我々の過去の位について次のように仰せられている。
 四信五品抄(御書三四二頁)「天子のむつぎにまとわれ大竜の始めて生ずるが如し、蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ」と。すなわち折伏を行ずる門弟を決して馬鹿にしてはならんぞと国中に命ぜられたのである。
 一方にはかくも位高き因縁の故に折伏の使命をうけもち、一方には難事中の難事を丈夫の欣(きん)快(かい)と喜ぶのである。故にこのような難事にいそしむ末法の勇士には、薬王菩薩も観音菩薩も舌をまき天台伝教もおそれをなすのである。
 大聖人が開目抄(御書二〇二頁)に仰せには、
「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」と。
 この御仏の御言葉に謹しんで我ら奉答し奉るに「難をしのび慈悲の深さにおいて、我らは仏様の億万の一分も及びませぬが、末法の民の冥利として仏勅に忠順にして勇気のある折伏行にはげむ点では、いかなる迹化の菩薩も恐れをなすべし」と。               
 かかる意気をもって、末法の難事たる折伏行にいそしまなくてはならない。