第十二章 折 伏 論

  第一節 折伏とは何か


 折伏は何のために必要か。
 我らが受持し奉る御本尊は、自行化他にわたる南無妙法蓮華経である。又我々がこの大御本尊を信じ奉る目的は成仏するにある。成仏というのは永遠の幸福である。すなわち破壊されることのない真実の幸福境に永住することである。
 成仏するためにこの大御本尊を信ずると、必らず成仏できるという証拠に生活の上に幸福の状熊が現われる。すなわち初信の御利益をうるのである。
 だんだん信心してゆくと成仏の境涯に近づく、しかし今は一国が謗法の時であるし、又自行化他にわたる法華経であるから、どうしても折伏の行がないと成仏なしえないのが末法の信心の絶対条件である。
 いいかえれば今日の信心は大御本尊を固く信じ奉つて、折伏を行ずるのが本当の信心である。
 これは一国が広宜流布した暁なら折伏はいらないのである。しかし日本国中も東洋もまだ御本仏の慈悲を知らない愚迷の徒ばかりである。この本仏を信じないばかりか邪魔をしたり知らんふりをしたりして大聖人が東洋に、又世界に真実の平和境を現出しようとする大目的を滅(めつ)却(きやく)しつつある。されば大聖人の味方となって大聖人の意志を世に行う者のみが成仏しうることになる。
 

 このことについて大聖人は曾谷殿御返事(御書一〇五六頁)に云く、
「涅槃経に云く『若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり』云云此の文の中に『法を壊る者を見て』の見と『置いて呵責せず』の置とを能く能く心腑(しんぷ)に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるベし、南岳大師の云く『諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるベしはかなし・はかなし」


 以上のごとく成仏のための折伏は自己のためであるが、再応は世を救うの大業をなしていることになる。すなわち大聖人の御使いとして、又大聖人から選ばれて、大聖人同様のことを行うことになる。大聖人の御代官である。されば大聖人が強く一国の謗法を責められたのも、大慈大悲の境地に立たれてのことであるから、同じく大慈悲の境地に住しなくてはならぬ。この位は文底の仏法にかりに六即位をたてれば分真即の位で、今一歩で究竟即の位、成仏の境地に達するのだ。その成仏の境地の一歩手前の行動であることを自覚しなくてはならない。
 その証拠には折伏する人は必らず利益をうける。その利益の中でもっとも自覚のできることは元気が充満し、生き生きした人生を感じ、強い生命の力が湧き出てくるのである。よく折伏し出した人が打ち沈んだ境涯から急に朗らかな自分を見出して驚くことがある。このように、現世には幸福の境地を得、未来永劫に消滅せざる幸福の生命を確信し、末法の本仏日蓮大聖人にお選びいただいた名誉をうるために、折伏は絶対に行じなくてはならない。
 信心の目的を果すために折伏を行ずるのだ。末法の信心修行は折伏以外に絶対にない。折伏こそ信心である。