第十一章 宗教革命と日蓮正宗

  第一節 佛教の誕生とマルチンルーテル

 釈迦が印度に出現して仏教を開いたことはあまりに有名である。しからば何が故に釈迦が印度に出現して仏法を説いたか、これは宗教革命である。九十五派にわたるバラモンの宗教が、統一的何物もなくただ低級な天上生活説にとらわれて無益な行をしており、生活を無価値化するだけで何の幸福ももたらさない事実を釈迦は凝視して、仏教という最高哲学を悟り宗教の革命を断行したのである。哲学は理論研究にすぎないが宗教は哲学の実践である。

 釈迦は偉大なる哲学者であるが、その哲学がバラモンの哲学の思惟の境涯から出たものでなくて、行という実践から結論した、人生の幸福論であるが故に、遂に東洋にかがやく宗教革命はできて、仏教は世界的存在となったのである。その後若き弟子及びその門流によって革命は継続せられ、いつも勝利の位置にたってきたのである。これは釈迦が正邪・勝負を基準としたことに基因している。


 一方宗教革命として歴史的に有名なのはマルチン・ルーテルである。キリスト教の腐敗堕落の絶頂に達したとき、彼はこのキリスト教の腐敗を正して、等しくキリストへ帰さんとして「キリストへ帰れ」と呼号してこの問題に突入したのである。彼も苦難の道ではあったが、キリスト教が低級宗教ながらも邪道をのがれることができたのは彼の功績である。
 彼にキリスト以上の宗教観のなかったことは誠に気の毒であるが、宗教が社会に害悪を流すとき必らず一人の智人が現われてこれが救いをなすという原則は、大小・高低・権実・本迹・文上の仏法と文底の仏法など、各々立場は違っていても世界人類に共通なものである。