第三節 本尊の功徳(利益)

 前に申しのベた通り日蓮正宗の本尊は一代諸経の中には、ただ、法華経にのみ住したまい、法華経の二十八品の中には、ただ本門寿量品にのみこもらせ給い、本門寿量品の中には釈迦仏法の寿量品でなく文底と申す法華経であり、末法の民衆得益の深秘の大法にて宇宙唯密の正法であらせられる。人は即ち久遠元初の境智冥含自受用の報身であり、法は久遠名字の本地難思の境智の妙法である。
 故にこの本尊によって諸仏諸経が生じられたのであるから、三世の諸仏はこの本尊を守護し讃歎するのである。さればその功徳の広大なること無量無辺で凡智をもつて計ることができない。されば末法の凡夫がこの本尊に向って南無妙法蓮華経と唱え奉れば「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕われざるなし」と日寛上人の仰せの通りである。


 この本尊を信じ自行化他にわたる「南無妙法蓮華経」を唱えて末法の行たる折伏を行ずるなら、心は清々しく身も清く、いかなる病魔も退散して身体の弱い人も信力行力によって健康な人生を送ることができるのである。又家を求むる者には家ができ、貧困な者は福運をうるのである。家庭の不幸なものは安らかな家庭ができ、子供で悩む者はなやみなき生活が現われ、職なき者には職がえられるのである。ただ信心の厚薄によるのである。

 

大聖人が経王殿御返事(御書一一二四頁)に、次のごとく仰せられている。
「又此の曼茶羅能く能く信ぜさせ給うベし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり(障)をなすべきや、鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、さいはい(幸)は愛染の如く福は眦沙門の如くなるべし、いかなる処にて遊びたはふるとも.つつがあるべからず、遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるベし、十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり、但し御信心によるべし」云云。 
 又この本尊を普通は御曼茶羅とも呼ぶ。曼茶羅とは輪円具足とも功徳聚ともいう。

 

これについて日女抄御前御返事に(御書一二四四頁)
「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」と。
 功徳聚とは三世の諸仏の功徳が聚(あつま)っているが故にこう呼ぶのである。
 さればこの大御本尊の真の功徳は三世の諸仏の功徳を頂くことである。永遠の生命を感得し不老不死の境涯に立つて、生死を超脱して何物に向つても恐れなく御子王のごとき生活力をうるにある。しかして自分がこの世に生をうけた意義を悟り、この得がたき人生を最高の価値として活用するにある。


 しかしてこの強き生命力はいかなる大難でも、これを乗りきることが出来なくてはならない。悩み苦しみがなくなるのではなくて、悩みきるとき、そこに運命の転換を見るの大功徳があるのである。さればこの人生は浄土と化し三世の仏・菩薩と居を共にして、遊行して畏れなきこと獅子王のごとき生活が現出するのである。四条金吾殿御返事(御書一一四三頁)に、
「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」と。この淡々たる境地こそ大功徳である。