第三節 日蓮宗勝劣派

 この宗派は本門法華宗(八品派)・顕本法華宗(什門派)・法華宗(陣門派)・法華宗(真門派)・本門宗等であり法華経の本迹は勝劣があると立てた系統である。
 しかしせっかく本迹の勝劣を立てても、文上の脱益に執着して、文底下種法門を知らないから、結局は大聖人の御法門とは相反するのである。

    一、本門法華宗(旧八品派)及び佛立宗等

 観心本尊抄(御書二四八頁)に「但八品に限る」と仰せられている所から、宗祖大聖人の御正意は八品(法華経の湧出品から嘱累品にいたる八品)であると立て、八品所顕上行所伝の妙法を法宝とし、脱益の釈迦を仏宝とし、上行日蓮を僧宝と立てるのがこの宗派である。


 大聖人御入滅直後に、本迹一致の主張もあったが、これと反対に本門張りの硬派もあって天目らはそのために日興上人に反対して一箇の邪義を立てた。
 その後宗祖大聖人御入滅後百三十年ごろ、京都一致派の妙顕寺の日隆・日存・日道等が本迹勝劣を唱え出して八品正意と立てた。日隆は始めのころ一致勝劣を議論した時に「本迹一至の門流を捨てたことは後悔千万で今後は一致門流に背かない」旨の詫び状を妙顕寺住職に差し出したほどの臆病軟弱な者であったが、その後妙蓮寺日忠なども八品派をたて、だんだんに弘まっていった。八品の流れは尼ヵ崎本興寺・鷲栖鷲山寺・岡宮弘長寺・京部本能寺京都妙蓮寺等である。         
 そもそも観心本尊抄に「但八品に限る」とは付属流通の段を御示しになられたものであって、仏と本尊とは寿量品に限るのである。故に本尊抄の次下には「寿量の仏」「寿量の本尊」と仰せられて、「八品の仏」「八品の本尊」とは仰せられないのである。
 新尼御前御返事(御書九〇五頁)
  今此の御本尊は(中略)宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品嘱累品に事極りて侯いしが、

 

 しかも八品派は観心本尊抄(御書二四七頁)の「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては(中略)八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体……」
の文を無理に曲解して「之を」とは「八品を」と読んでいる。これは飛んでもない誤りで前後の文脈上、「之を」とは「南無妙法蓮華経の御本尊を」という意であって決して八品ではないのは明白である。八品所顕の本尊とは大変な誤りである。
 しかも文上脱益の寿量品すら末法には有害無益であって、大聖人の御正意は寿量文底下種の南無妙法蓮華経であらせられるのである。
 御義口伝(御書七五三頁)
    然りと雖も而も当(寿量)品は末法の要法に非ざるか其の数は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益・減後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す云云。

 故に八品正意とはまったく意味のない邪説であって、大聖人の御正意に反するのである。文底下種の南無妙法蓮華経、人法一箇の大御本尊を知らず釈迦本仏などと立てる彼ら八品派の無間地獄は疑いのないところである。


 このようにいわれると、彼らは寿量脱益、八品下種(又は神力下種)などと云い出すが、これも本尊抄、の文底下種の一品二半を知らない邪義である。
 さてこの本門法華宗は現在はいくらも信者がなく勢力もない。今は法華宗(本門流)と名のって戦争中に本妙法華宗(真門流)や法華宗(陣門流)と合同して法華宗を結成したが、最近は又三つに分派して細々と露命をたもっている。 本門法華宗から大正昭和にかけて分れたものに、本門経王宗(東京方面)や本派日蓮宗(茂木市方面)などがあるが、いずれも弱体である。

 徳川時代の末に八品派から分れたものに日扇の開いた本門仏立宗がある。
現在は法華宗(本門流)より新興宗教たる仏立宗の方が大きな勢力をもつ。
 徳川時代の末から明治の始めにかけて京都に長松清風という本門法華宗の僧があり、本門法華宗から離脱して仏立講という小さな在家講の一つを開き日扇(につせん)と称した。この日隆日扇の系統が現在の本門仏立宗である。
 日扇が仏立講を開いたころ八品派に地獄・餓鬼・畜生の三途(ず)は成仏するかしないかという極めて低級な議論がおこり、日扇は三途不成仏を主張して負け日隆と同じょうに本応寺日憙に対し「今後は三途不成仏の邪説をいったり字がうまいからといって本尊書写などはしません」という詫び状文を出している。


 その後また寺とうまくいかず仏立講を開き関西で少し拡まったが、日扇の死後、彼の死相に疑いをもった当時の幹部が続々と前に折伏をうけていた日蓮正宗に改宗し仏立講は壊滅同様となった。そのほとぼりのさめたころ影響の少い関東に進出してきて邪義をばらまいた。京都の宥清寺(ゆうせいじ)を本山とし東京渋谷の乗泉寺を悪魔の根城としている。      
 南無妙法蓮華経のニセ曼茶羅を本尊にし、坊主は黒衣をまとい信者を廻って飲み喰いにはげみ、信者はチャキチャキ拍子木をたたき仏前にたくさんの水をあげ不幸があると一日に三升も五升も飲ませたりするやり方は新興インチキ宗教と変らない。教義の内容をつきつめてみても八品所顕の妙法と釈迦本仏と上行日蓮菩薩という邪義以外に何もない。


 戦後、創価学会の折伏によって仏立宗が日蓮大聖人を悪しく敬う邪教であることを悟った仏立宗の信者は、幹部を始め続々と日蓮正宗に入信している。
 仏立宗に相伝があるとか、一辺首題の板本尊や黒仏があるとか、方便寿量品を読むなとか、日扇書写の金丸本尊を尊ぶとか、すベて創価学会より徹底的に破折をうけ衰微の一途をたどるのみである。
 同じく日隆日扇を立てる中に、仏立宗の主流にあきたらなくて分裂したものが、在家日蓮宗浄風会(東京方面)、日蓮主義仏立講(名古屋万面)、法華宗獅子吼会(東京方面)等がある。いずれもニセの曼茶羅を本尊にし、釈迦本仏を立てるのは、まったく同じ邪義である。

     二、顕本法華宗

 妙満寺派又は什門派(じゆうもんじは)とも称し、本山は京都の妙満寺で、日蓮大聖人滅後百年のころ、日什が派祖となって開いたものである。
 日什はもと比叡山における天台の学者であったが、晩年に日蓮大聖人の御書を拝読して、末法の法華経は日蓮大聖人によらなければならないことを悟り、さて日蓮門下は多くの宗派に分れてどの宗派が正統であるかがわからず、六老僧もすでに御入滅の後であったので尋ねる術もなく、やむなく自ら御書を読んで御書によって悟ったと称し、経(きよう)巻(かん)相(そう)承(しよう)と立てた。
 日蓮大聖人も一応は法華経によって我が身が上行菩薩の再誕なりとお立てになったのであるが、法華経には上行菩薩の付属が明確に予言されており、日蓮大聖人は全くその予言通りの御振舞の後に、三大秘法抄「御書一〇二三頁)に「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」と仰せられている。故に仏教の真髄は血脈相承・師子相承といって、必らず面授口決の御相伝によらなければならない。
 たとえ年代が離れていても、経文の証拠によって決定されるのである。


 しかるに日什の場合には予言の経証もなく、面授口決も勿論ないままに、経巻相承と立てて自己の正統を主張するのは仏法を破壊する根本原因となるのである。日蓮宗ならどんな宗派でも御書と法華経を手にするのは当然であるが、それでいて多数の邪流邪義を生ずる理由は、まったく経巻相承という増上慢をおこすからである。
 さてこの宗派では本迹の勝劣を立て、本門の一品二半でなければならないと説くのであるが、法宝には寿量文上・本果の妙法、仏宝には寿量顕本・脱益釈迦、僧宝を上行日蓮と立てることは、やはり天台の文上の一品二半(法華経涌出品の後半、如来寿量品、分別功徳品前半)に執着していて日蓮大聖人の御正意ではない。


 法華取要抄(御書三三六頁)に御示しのごとく一品二半には二意があって、在世の衆生を得脱せしめる一品二半と末法下種の衆生の為に説きおかれた一品二半とはその相違が天地雲泥である。それは観心本尊抄においても「又本門十四品の一経に序正流通あり」と仰せられる辺の一品二半と、さらに「又本門に於て序正流通あり」と仰せられる辺の一品二半がある。前者は五重の三段の中でも第四本門脱益の三段における在世脱益の一品二半であり、後者は第五文底下種三段の御法門における正宗分の一品二半であって、両者を混(こん)淆(こう)することは、まったく宗祖大聖人の御正意に反するのである。
 これらの邪義をもととした顕本法華宗において、明治のころ本多日生が出て雑乱撒廃、本尊統一を叫んだが、こんなことは当然のことであり、いかなる本尊に帰一するかが問題なのである。しかるに本多は戒壇の大御本尊に怨嫉し極端な釈迦本仏義を唱えたことは許されぬ大謗法である。しかも戦争中は本迹一致で本尊雑乱の本家である身延派と合同したのであるから、そのデタラメぶりには只々あきれるばかりである。最近その一部分は身延から分離して顕本法華宗を名のっているようであるが、大部分は今なお身延派に属して雑乱謗法物と同居して喜んでいるありさまで、旧来の顕本法華宗になお輪をかけた大謗法を犯しているのである。

    三、法華宗

 そのほか本迹勝劣と立てる法華宗に法華宗本成寺派(陣門流)と本妙法華宗本隆寺派(真門流)があり、今はそれぞれ法華宗(陣門流)、法華宗(真門流)と称している。戦争中はこの二派と本門法華宗が合同して法華宗と称したが、戦後は又それぞれに分れた。
 法華宗(陣門流)は現在越後三条市の本成寺を本山とし、日朗の弟子日印が派祖である。本成寺は京都の本国寺と共に日印の教勢下にあったが、日印の弟子日静は京都本国寺を日伝に、越後本成寺を日陣に付して世を去った。
 その後、日陣は本迹勝劣を唱え、日伝と論争の結果、日陣の本成寺は日伝の本国寺(本迹一致派)と絶縁し分立するにいたった。
 法華宗(真門流)は日朗・日像の流れをくむ京都妙顕寺(本迹一致派)日具の弟子日真が、京都四条大宮に本隆寺を開き本迹勝劣を唱えた。


 これらの宗派はいずれも本迹勝劣を立て、本門寿量品を正意と立てているものの、法華経文上教相に執着し、仏宝を脱益の釈迦、法宝を妙法蓮華経、僧宝を上行日蓮と立てている。これは日蓮大聖人の正意とは遠くかけ離れた誤まれる邪義である。
 すなわちその一端を示すならば天台大師の立てられた三種の教相いわゆる第一・根性の融不融、第二・化導の始終不始終、第三・師弟の遠近不遠近、この中の第三の教相をもって、大聖人が常忍抄(御書九八一頁)に「法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分跨節の事に三つの様あり日蓮が法門は第三の法門なり」と仰せられている辺の第三法門と同様であると解しているのである。まったく甚しい僻見である。
 

 大聖人の第三法門とは、第一に権実相対、第二に本迹相対、第三に種脱相対して建立した文底下種本門の事である。これを天台の三種の教相に相対すれば、天台の第一第二は大聖人の第一に属し、天台の第三は大聖人の第二に属するのである。そして、さらに種脱相対一種を加えて第三となし、「我が内証の寿量品」と仰せられて文底下種の寿量品は事の三大秘法であり、これこそ日蓮の第三法門であると仰せられているのである。同じく文上の寿量品にしても、体内体外の別があってその相違は天地のひらきがある。故にこれらの宗派で執着する文上体外の天台の寿量品では、大聖人の御本懐とは百千万億も劣っているのであり、まったく不相伝の故に陥った謬義なのである。
 また彼らは偽書・日朗譲状をもって大聖人の直系と主張した時代もあったが、現在は日朗譲状を彼らも偽書と認めており、もはや論ずるに足らない。
 邪宗日蓮宗の例にもれず本尊の雑乱はにぎやかで、本成寺境内には六角堂番神社・弁財天神・鬼子母神・稲荷神社・諏訪神社等の謗法物をかざって拝ませている。現在はいずれも檀家は不幸であり寺はすたれて、昔の姿は全然みられず壊滅をまつばかりである。

    四、旧本門宗

 第二祖日興上人、第三祖日目上人の御弟子中で、富士大石寺から分立した各派が旧本門宗である。現在は日蓮正宗に帰一しているのが多いが、中には今なお邪宗身延派に合同しているのもあるのは情ない限りである。
 いわゆる富士門流の八本山とは、年代順でいえば
      ①富士大石寺を中心として
      ②北山(重須)本門寺
      ③京都要法寺
      ④伊豆実成寺
      ⑤下条妙蓮寺
      ⑥小泉久遠寺
      ⑦保田妙本寺
      ⑧西山本門寺である。
 富士北山本門寺は日興上人が富士大石寺建立後に移られた地であり日代が第二世となった。開基檀那は石川孫三郎殿である。日代は間もなく北山を檳出(ひんず)されて移ったのが西山本門寺である。日目上人が七十四才の御老体で天奏のため京都へ上られる途中、美濃の垂井で御遷化遊ばされたので、お伴をしていた日尊がそのまま京都へ行って開いたのが要法寺である。伊豆の実成寺も開山は日尊である。又同じく日目上人のお伴をしていた日郷は一度富士大石寺に帰ったが、後に檳出せられて房州の保田へ移り、そこで建てられたのが妙本寺である。小泉久遠寺は同じく日郷が仮(かり)住(じゅう)庵(あん)したもので実の開山は日安である。又富士下条妙蓮寺は日興上人の弟子である寂日坊日華上人の開かれたもので、南条時光殿の邸の跡に建てられた。
 これらの各寺は、正統相伝家たる富士大石寺にたいし、帰一した時代も反逆した時代もあった。明治時代には富士大石寺に帰一し、日蓮宗興門流と称していた。しかし各寺は永年にわたり大聖人の正義に反することが多かった。
 まもなく富士大石寺は謗法の各寺を切りすて日蓮正宗と称し現在にいたっている。そして他の七本山は邪義を改めぬまま本門宗と称していた。
 この旧本門宗は太平洋戦争中に所もあろうに邪宗身延門流に合同してしまった。しかし富士下条妙蓮寺は戦後いち早く日蓮正宗に帰った。また讃岐本門寺は日華・日仙上人が開かれたのに徳川幕府の宗教行政で北山本門寺の末寺となっていた。そのため敬慎房日精上人は富士大石寺の正義をかざして折伏に励み、領主の迫害で大御本尊に身を捧げられたが、戦後は待望の日蓮正宗帰一をみた。最近では保田妙本寺及び日郷の弟子日叡の開山になる定善寺等の日向七ヵ寺が、邪宗身延を脱して富士大石寺に帰一する英断に出た。
 京都要法寺は真先に堕落し日辰いらい法華経一部読誦・釈迦像造立など謬義を立てたが、富士大石寺日寛上人の教風によって宗祖本仏義を主張し本尊雑乱を排して正義に目ざめた時代もあった。しかるに戦争中は率先して邪宗身延派に合同した。最近では大部分が脱退独立して日蓮本宗と称している。
 西山本門寺も最近は身延と手を切って単立寺院となっている。
 本門寺とは国立戒壇建立のとき、富士大石寺に名づける寺号であるベきなのに、北山本門寺は富士大石寺より離れてから勝手に本門寺と名のり、本門寺根源などと看板を出し、ましてや邪宗身延に屈して恥なき姿は言語道断である。早く身延から離れ山内の謗法を払い寺号を撤去して信心を改め、要法寺等と共に日蓮正宗の正法正義に帰服し清浄な富士の裾野を形成すベき時である。そのことのみが広宣流布、国立戒壇建立の真近い現在、宗開両祖にまみえる唯一の道であろう。