第二節 日蓮宗一致派

 日蓮大聖人御入滅後、法華経の本門と迹門に勝劣があるかないかで諍論(じようろん)がおこり、本迹一致を主張した系統が、身延山を総本山とした日蓮宗(単称)である。その主な寺と系統は、
身延山久遠寺       日向、十一世日朝
池上本門寺        日朗
中山法華経寺(中山妙宗)  富木日常
京都妙顕寺        日像
京部本国寺        日朗
不受不施派        日奥
不受不施講門派      日講

 日蓮大聖人の仏法は五重の相対で明らかなごとく、迹門は劣って本門は勝れ文上は劣って文底が勝れる故に、文底下種の南無妙法蓮華経でなければならないことを、この宗派は全く知らないから既に本迹に迷っているのである。

     一、身延離山及び當時の情勢

 身延山には日蓮大聖人が九ヵ年の間お住まいになり、しかも大聖人は御弟子日興上人に対して池上相承で「身延山久遠寺の別当たるべきなり」と御付属遊ばされているが、現在の身延は日蓮大聖人とも日興上人とも全然関係のない偽物の日蓮宗になっている。霊友会や立正交成会のようなインチキ宗教の会員を登山させて、多額の寄附をうけ、謗法の供養をうけて喜ぶような怪山となった理由については、次のような歴史上の事実があったのである。
 日蓮大聖人は弘安五年に六十一歳で御入滅になるにあたり、御弟子日興上人に一切を御付属遊ばされた。これが身延相承と池上相承の二箇の御相承である。


 よって日興上人は御付属通り身延山において一宗の総貫主、御法主となられたのであった。このとき地頭の波木井実長は「日興上人が身延山においでになったことは日蓮大聖人の御再来と思い、大変に嬉しくて、世間のことにつけても、出世間のことにつけても、何事も不足はありません」とのお祝いを申しあげている。
 しかるに他の五老僧たちは各自の本国に帰って自然に身延をすてた形となった。それのみか五人は天台沙門と名のって先師たる日蓮大聖人をすて、上は本尊問題から下は神祉参詣等を許して世間に迎合し、すべてが軟らかになって、先師日蓮大聖人の末決の御本仏としての教風は廃れるにいたった。
 三年忌もすぎ七年忌を迎えるに当って、日興上人は他の御弟子方に対し、故なく身延をすてるのはどうしたことか、早く登山せよと促がされた経緯は美作房御返事に明らかである。
 

 その間に民部日向が唯一人身延山へこられたので、日興上人は学頭職につけられた。
 それから、二・三年の間に地頭・波木井実長はすっかり日向の軟風にかぶれ、初発心の師たる日興上人を捨てて四筒の謗法を犯し、日興上人の御諌暁も一向に聞きいれなくなった。
 かくて身延山は民部日向と波木井氏がグルになった全くの謗法の山と化したので、日興上人は重大なる御決意のもとに、日目・日華・日仙等の御直弟子方を率いて身延を御離山になり、河(かわ)合(い)に行かれ、ついで南条氏の請いに応じて上野に移られ、さらに現在の富士大石寺を御建立になって、広宣流布のもといを堅められたのである。
 一方身延山においては、波木井氏の親族中にも清純に日興上人につかれた方もおられたが原殿を始め次第になくなられて、身延と富士との往来も絶えた。身延山にいすわった日向も晩年には房州の藻原に立ちのき、身延は単なる波木井の壇那寺となり、全くもぬけのからになった。以来数百年の間身延山は濁りきった謗法の山として現在に至っている。江戸時代の中山の日親師は原殿御書を引用して、この当時の日向の謗法行為を責めた上で「身延山でも池上でも下馬してはならない上に、参詣は沙汰の限りなり」と云っている。
 現在の身延の堂塔は、徳川時代のはじめ大聖人の草庵とは反対側の山をけずって建てたもので、徳川の権力と結びついて出来た大聖人とは何の関係もない寄せ集めの新興宗教なのである。
 又池上やその他の各寺では日朗上人を開祖とするものが多い。朗師は一旦は日興上人に叛いたものの、元来が温良な方で後には富士に日興上人を訪ね、手をとって泣かれたと伝えられている。よく世間の俗説に日朗を「師孝第一」などと祭りあげているが、これは後世になってから一致派がデッチあげたもので、事実は日興上人こそ「常随給仕、師孝第一」であったことは歴史が雄弁にものがたっているのである。


 六老僧第五の日頂上人も五老僧について日興上人に反対したが、晩年には富木氏と絶縁して、富士へ来て富士で入滅されている。その他にも日澄とか日順とか身延系の学僧で富士に帰伏された方もたくさんあるのである。
 この当時の情勢を思うに、身延山の墓番帳に六老僧が主体となって十八人を選定されてあるが、その内で過半数の十人までは日興上人及びその御弟子、孫弟子に当られる方々であってみれば、大聖人の御付属を受けつがれた日興上人の御事蹟が赫々と輝いているではないか。御相伝についても誰一人異議をさしはさむ余地もなかったことが明らかである。当時の文献には一向にそれが見当らないで、富士に対する罵詈雑言はすべて何百年か後の中世のものにすぎないのである。

    二、身延の教義と本尊

 この宗派の教義は元来本迹一致を主張し法華経の文上を立ててきた。これに同じ法華経でも迹門と本門と文底の三種類あることを知らないから、末法には全く縁のない天台の法華経を生かじりして説いているのである。
 大聖人は治病抄(御書九九六頁)に本迹の相違は水火天地の相違があると仰せられている。さらに開目抄(御書一八九頁)には「一念三千文底秘沈」と仰せられているから、大聖人出世の御本懐は文底秘沈の三大秘法であらせられるのである。
 この宗派では法華経文上の妙法を立て、あるいは応身の釈迦を本尊とし、脱益の釈迦仏を本仏にして大聖人を菩薩と呼び僧宝としている。しかるに日蓮大聖人は本尊問答抄(御書三六五頁)で「釈迦を本尊に立てることは法華経の正意でない」と仰せられ、御義口伝(御書七六〇頁)で「本尊とは法華経の行者の一身の当体である」と仰せられ、又同じく御義口伝(御書七六六頁)に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」と御説きになっていることを拝すれば、この宗派の謬義(びゆうぎ)が明白になるのである。
 要するに不相伝家の身延山は、大聖人の御真意を知らず、宗祖大聖人御入滅後数百年を経た今日においても、釈迦を拝むのか、大聖人の像を拝むのか、曼茶羅を拝むのかさえも知らないで、従って本尊の教義も儀式も定らないで、徒らに時流にへつらっているのが身延山の実体なのである。
 それが何よりの現証として、今日本社寺大観によれば、身廷山には七面山、石割稲荷、日朝堂、願満稲荷、摩利支天堂、帝釈堂、瘡守(そうしゆ)稲荷、鬼子母神堂等々があるとあり、その前に賽銭箱をおいて金もうけに必死で、ニセ本尊を店頭で売りに出しているありさまである。
 こんなものを拝み歩いて何の利益があるか、ますます不幸のドン底へ陥ることは当然である。本尊の雑乱は日蓮正宗以外の各宗派に共通であるが、特に身延山を本山とする日蓮宗(単称)は甚しくて、末端の小寺では全くとんでもないものを祀って拝ませている。これらはすベて無智の大衆を迷わせて坊主が生活の糧にしている以外には何の役にも立たない。特に身延や中山の行者の狂乱ぶりは全く身の毛のよだつ思いであり、これらの邪教にたぶらかされて苦悩のドン底にあえぐ大衆の姿こそあわれである。
 宗祖大聖人は当時の仏教界がみな本尊に迷って、阿弥陀や大日如来を本尊にし、あるいは畜生を本尊にして祈禱している状熊を徹底的に破折され、しかして南無妙法蓮華経の大御本尊を御建立になって、一切大衆を救護なされたのである。故に弘安二年の本門戎壇の大御本尊に帰依し奉る以外に、成仏得道の道は絶対にないのである。
 昭和三十年三月、小樽問答において身延派代表は、本尊雑乱・身延派教義の誤り等を創価学会代表に徹底的に撃滅された。これは天下周知の事実であり、「小樽問答誌」にはくわしく身廷の謗法大敗ぶりが記載されている。その後、身延は本尊雑乱に対する学会の追究にたえかね、しかも何を本尊とするか今もって一致せず、苦しまぎれに日蓮宗教学審議会によって「釈迦像を中心に背後に十界曼茶羅、宗祖の像を左横に安置する」という本尊統一暫定案をきめたとは笑止千万のいたりである。又最近は大曼茶羅は大聖人正意の本尊にあらずと否定し一尊四士などを本尊とするなどと云い出すにいたり、ますます大謗法を重ねているのである。

    三、池上と中山

 池上本門寺(開山は日朗)中山法華経寺(開山は富木日常)・京都妙顕寺(開山は日像)等はみな一致派で、明治から大正にかけて、身延山を総本山とする日蓮宗(単称)を立てていた。
 昔からこれらの寺は大体が身延と同じ系統であったが、時には身延に反対し又仲よくなったりしてきている。戦時中には統合されて膨張したが、戦後は又脱退が多く、中山も身延から脱退して中山妙宗という新宗派を開いている。
 これら各寺の開山は宗祖大聖人に深縁の方々であり、日朗上人は六老僧の一人であり、富木常忍(日常)は観心本尊抄を始め多くの御書を戴いた方である。しかるに大聖人御入滅後、日興上人は唯一人正法正義を受けつがれて現在の大石寺に伝承されてきているのに反し、他の御弟子方は御相伝がなく又第二祖日興上人に反逆したため、当時の一点の濁りが数百年の間にますます濁乱してしまったのである。
 日本社寺大観によれば、池上には清正公堂、長栄稲荷、大黒堂等々、中山には荒行堂、刹堂(さつどう)(鬼子母神)などとある。
 要するに池上は年一度のお会式を売物にして寺を経営し、中山は鬼子母神を祀ったり、加持祈禱の気狂い荒行行者を養成する本家のようになって終ったことは誠に残念なことではないか。

    四、京都の一致派

 日朗の弟子日像は京都に出て布教し、妙顕寺を中心に勢力を張った。日像は帝都弘教の付嘱を受けたと称しているが、当時十幾才の少年にそんな付嘱があるわけはない。その教義は釈迦本仏、本迹一致の邪義であり、京都の一致派は真先に堕落し、軟風にそまり邪宗と妥協して、救いがたき大謗法をおかした。現在の身延派の大部分は京都一致派の流れであり、身延久遠寺、池上本門寺系統は少いのである。もっとも早くひどく大謗法に染った京郁一致派と、徳川時代になってから権力と結び稲荷や鬼子母神でデッチあげた新興邪宗教の身延などの結びつきが、現在のごとき怪奇きわまる邪宗身延派を形成しているのである。
 後に京都の一致派から日蓮宗勝劣派といわれる日隆等の本門法華宗、日真日陣等の法華宗が喧嘩分れして飛出している。

     五、日蓮宗不受不施派、同講門派

 岡山県妙覚寺を本山とする日奥の開いた一派が日蓮宗不受不施派であり、さらに分裂して日講の開いた系統が不受不施講門派である。その教義は身延系統と同じく本迹一致の邪義である。