第二節 諸宗派の批判

  一、天 台 宗

(発生と歴史) 天台大師(西紀五三八~五九七年)は陳朝(西紀五四七~五八〇年)の天嘉元年、二十三歳の時、光州の大蘇山で慧思(南岳大師)に師事し、四安楽行を授けられ法華三昧を行じた。その後大いに「法華経」の深義を究め、金陵(今の南京)の瓦官寺に八年間住して「大智度論」等を講説して高名をはせた。
 大建七年九月、三十八歳の時天台山に入り修行すること十数年、詔(みことのり)によって再び金陵に帰り「大智度論」「仁王経」を講じた。その後五十歳の時「法華文句」、五十六歳にして「法華玄義」、翌年「摩訶止観」をのべて天台の三大部を完成した。その間、南三北七の邪義を破折信服せしめた。
 天台の正法は第二祖章安大師(西紀五六一~六三二年)によって伝承せられ、中興の祖として仰がれた第六祖の妙楽大師(西紀七一一~八二年)により、実践修行に移されて大いに興隆した。
 わが国の伝教大師(西紀七六七~八二二年)は、延暦二十三年(西紀八〇四年)入唐し、妙楽大師の弟子行満座主(第七祖)及び道邃(どうずい)和尚によって天台宗の深法を伝付された。
 帰国後比叡山に一乗止観院(今の根本中堂)を建立し、殿上において南都六宗と法門論議を行い三乗を破折して法華一乗を顕掲した。ついで義真(西紀七八一~八三三年)は、勅を奉じて迹門円頓戒壇を叡山に建立し、天皇の御帰依厚く王仏冥合の姿を示し、桓武・嵯峨・平城天皇の三代五十余年にわたる絢(けん)爛(らん)たる平安の時代を現出せしめたのである。
 ところが、天台第三の座主慈覚(紀西七九四~八六四年)、第五の座主智証(西紀八一四~八九一年)にいたって、亡国の悪法、真言をまじえ、あたら明珠を瓦礫にかえてしまった。
 その後第十八代の良源(西紀九一二~九八五年)のころから、比叡山の慈覚派と三井寺の智証派とに対立して争い、衰滅の歩をたどっていった。

(教義と本尊) 法華経を正依の経として、涅槃教・華厳経をはじめとして、諸大乗経に説かれている円文をもって傍依の経としている。
 そこから立てる所の教義は、教・観二門をもってその綱要としている。
 教相に五時八教を立てる。釈尊一代五十年の説法を、華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃の五時に分ち、その中の法華経をもって仏の出世の本懐としている。さらに、化法の四教(蔵・通・別・円)、化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)、合せて八教をもって、五時の化導の意味と、その間に説かれてある教法の内容を巧みに判じて細釈している。
 観心には三諦円融の理をとなえ、「摩詞止観」に立てるところの一念三千、一心三観の理を証することにより速疾(そくしつ)頓成(とんじよう)を期する旨を明らかにしている。
 支那においては、たんに法華円教の教旨をのぶるにとどまったが、伝教大師はそれに重ねて、真言密教及び禅、円頓菩薩戒の三宗を新たに加え、四宗一致の旨を唱導している。
 比叡山の根本中堂の本尊は薬師如来である。上野にある天台宗の総本山、東叡山寛永寺にも一往は薬師如来が祀つてある。しかし、境内にある附属の建物には、種々の本尊が祀つてある。比叡山の大講堂には大日如来、釈迦堂、阿弥陀堂には、それぞれ釈迦と阿弥陀如来、寛永寺の釈迦堂には釈迦、文殊、普賢の三体、観音堂には千手観音などで、本尊雑乱の姿を如実に示している。

(現状) 比叡山延暦寺を本山とする山門派は三千数百、園城寺を本山とする寺門派は五百数十、比叡山の麓にある西教寺を本山とする真盛派(西紀一四八六年、慈摂大師真(しん)盛(せい)が立てた一派、題目と称名念仏を行う)が約四百の寺院をもっている。
 三派で信徒は八十万近くいるが、その大部分が山門派に属している。
 東京にある大正大学は、真言宗豊山派と浄土宗、そして天台宗とが共同経営している学校である。

(破折) 「……叡山天台宗の過時の迹を破し候なり、設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自(よ)り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間・像法の利益も之無し増して末法に於けるをや」―観心本尊得意抄(御書九七二頁)― との大聖人様の御言葉のごとく、像法の衆生を救った天台、伝教大師の教えのままに、今末法でやっても功徳がない、まして慈覚からは真言の邪法をまじえ先師の教えに反して大謗法を犯したのであるから、それを末法においてやっても功徳がないのは当然である ― と、すでに七百年前に、大聖人様から完全に破折されている。        
 しかるに、その教えに背いてなおも謗法を続ける叡山は、経済的に困窮をきたし、宗門を維持するための一大財政資源としてきた森林も、すでにきるべき木もなく、このピンチを切りぬけるため、とうとう一山を観光地としてしまった。
 今や、天台宗そのものが、宗教的なものを離れて、俗化され営業化されつつあるのだ。

  二、真 言 宗

(発生と歴史) 大日如来は色竟天法界宮において「大日経」を説き、金剛宮において、金剛頂経」を説いた、金剛薩埵がそれらを結集して南天の鉄搭においた、釈迦滅後七百年ごろ、竜樹菩薩がその鉄塔の扉を開き、両経を金剛薩埵より授かりこれを竜智菩薩に伝付し、竜智はさらに、「大日経」等を善無畏に、「金剛頂経」等を金剛智に授けた ― と、このように真言宗(東寺流・天台流によって多少説を異にする)では説いている。
 善無畏(西紀六三七~七三五年)は、唐の玄宗の開元四年、七十九歳の時印度から入唐し「大日経」「蘇悉地経」を訳し、皇帝の帰依も厚かつた。
 一方、金剛智(西紀六七○~七四一年)も開元八年入唐し、「金剛頂経」「瑜(ゆ)伽(が)論(ろん)」等を訳し、その法は不空(西紀七〇四~七七九年)、慧果(西紀七四六~八〇五年)と伝授された。                
 この間印度、支那においては、まだ真言宗という名はなかった。
 わが国の弘法大師(西紀七七四~八三五年)は、三十一歳の時最澄と共に渡唐し、慧果より金剛、胎蔵両部の秘奥を伝承し、帰朝後、嵯峨天皇の大同二年(西紀八〇七年)十一月、真言宗の立宗を宣言した。
 その後、京都の東寺を、晩年には高野山を根本道場として宗派の発展につとめた。
 弘法大師に十人の高弟があり、その中で実慧(じつえ)の門流と真雅(しんが)の門流の二派が栄えた。実慧は大日経による胎(たい)蔵(ぞう)界を表として伝え、真雅は金剛頂経による金剛界を表として伝え、これが端緒となって真言宗は二派に分れた。すなわち前者を広沢流、後者を小野流という。
 以後は三十六派に分れ、さらに多数の分派を生じたが、大別して高野山を総本山とする古義真言宗と、智山、豊山の両山をもって総本山とする新義真言宗とに分けられる。

(教義と本尊) 東密(東寺流)、台密(天台流)に分れて、説くところも多少異っている。胎蔵界と金剛界を立て、大日経と金剛頂経の両経の根本趣旨を図様に顕わして、胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅を作り、前者は大日如来の理を現わし、後者は智を現わしているという。
 その他教組の面で、五智・六大・四曼荼羅・三密・四種法身・五方五智等を説いている。
 また、新義派は、法身たる大日如来が自証極位という絶対の位で説法したのが大日経であるとする本地身説法を説き、古義派は、ただ衆生を加護せんがために不思議の力用、即ち加持身を現わして説法したものが大日経であると主張する加持身説法を説くのである。
 そして両派とも、法華経等の一切経は応身の釈迦仏が説法したものであり、大日経は法身大日如来の説法である、大日如来に比較するならば釈迦は無明の辺域であり草履取りにも及ばない、又法華経は釈迦一代の仏経中にも第三の劣であり戯論である、さらに一念三千は大日の法門であり法華経にもこれが説かれているから「理は同じ」であるが、大日経には印と真言とが詳しく説かれているので「事において勝れている」等とのベている。
 本尊として大日如来・薬師如来をおき、脇士に金剛薩埵・不動明王・虚空蔵菩薩等の仏・菩薩を配置してある。
 それらの仏・菩薩・諸尊の前で両部の曼茶羅をかけ、加持祈禱の法を行う。その方法として壇をかまえて護摩をたいたり、真言を口に唱え、手に印を結んだりして礼拝、供養する。

(現状) 現在においては古義真言宗(高野山金剛峰寺・仁和寺・大覚寺)、真言宗東寺、真言宗醍醐寺等の七派を古義と称し、これに対して真言宗豊山派と真言宗智山派を新義という。高野山を総本山とする一派は、約百六十万の信徒を有し教育機関として高野山大学を持っている。その他の真言系各派の共通の教育機関として京都に種智院大学がある。

(破折) 真言宗の依経とする大日経、金剛頂経、蘇悉地経等は釈尊四十余年の権教の説である。
 真言宗のもっとも悪法たるわけは、一代の教主たる釈迦を悪口し卑下して法身仏である大日如来を立てるところにある。一身即三身と現れる仏こそ我我衆生に智慧と慈悲をもって接することができるのであり、法身の理はわれわれの生活とは直接に何の関係もない。大日法身といえども釈迦の説法であり、しかも四十余年の権経である。それのみか天台の一念三千の法を盗みいれて自宗の極理となし、日本の弘法にいたっては更に口をきわめて法華天台を罵(ののし)っている。このように本主を突き倒して無縁の主を立てる所から、真言は亡国亡家亡人の法であるとされるのである。


  三、浄 土 宗(及び真宗)

(発生と歴史) 曇鸞(どんらん)(西紀四七六~五四二年)は支那南北朝時代の浄土宗の祖である。北天竺の菩提留支(ぼだいるし)三蔵に会って「観無量寿経」をうけ、もつぱらその修行に励み、阿弥陀の絶対他力によって浄土往生ができると説いて、狂気のように浄土の教を弘布した。
 道綽(どうしやく)(西紀五六二~六四五年)は、はじめ、涅槃経の研究に没頭し高名をあげたが、たまたま曇鸞の刻せる碑文を見て迷い浄土門に帰した。
 善(ぜん)導(どう)(西紀六一三~六八一年)は、道綽の九品道場に行って、そのまま「無量寿経」を信仰し、人々に盛んに称名念仏をすすめた。後遂に気が狂い、寺前の柳の木で自殺を遂げたのは有名な話しである。以上が支那における浄土宗の祖である。
 わが国の浄土宗の元祖法(ほう)然(ねん)(西紀一一三二~一二一二年)は、十五歳にして叡山にのぼり諸宗の教理を研究したが、偶然観経疏(観無量寿経の註釈)の「一心専念弥陀名号云云」の文に直面し、一切余行をすてて阿弥陀の誓願を信じ浄土一門を開創した。時に高倉天皇の承安五年三月、法然が四十三歳のことであつた。その後「選択集」を著わし、世情にこびて弘まったが、建永二年(西紀一二〇七年)二月、勅あつて専修念仏は停止され、法然は配流され弟子は処刑された。門弟は鎮西派・西山派等多数の分派を生じた。
 親(しん)鸞(らん)(西紀一一七三~一二六二年)は叡山において仏道修行したが、建仁元年(西紀一二〇一年)法然にあつて教を受け、法然流謫の時は越後に流されたが五年にして赦され、五十二歳で「教行信証」を撰したという。これが浄土真宗の開宗である。後京都の大谷に親鸞の祖廟が建てられ、本願寺の号をうけた。そして江戸の初期に東西本願寺に分裂して現在にいたっている。

(教義と本尊) 無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土の三部経を所依の経としている。この世は穢土であり死後西方極楽浄土へ往生するのを理想とし根本としている。そのため釈迦一代の仏数を聖道門・浄土門の二つにわけ、浄土宗以外の一切の経教を修行するのは難行道であり浄土門は易行道であると立てる。そして聖道門においては「未だ一人も得道した者がない」とか「千人の中に一人も成仏する者はない」として、このような雑修雑行をすて「百人が百人とも往生できる」念仏宗に帰依せよと主張している。法然は、捨閉閣抛といつて三部経以外の教を一切雑行雑修となして、正法たる法華経を誹謗している。
 浄土宗では、念仏を修して住生をうると説くが、浄土真宗では、念仏は往生を願求するのではなく仏恩報謝であると説いている。
 本尊には阿弥陀の一仏のみを立てている。

(現状) 浄土宗は、京郁の知恩院を総本山に、東京にある芝の増上寺をはじめ四ヵ寺の大本山を有している。一宗最高教育機関として、天台・真言両宗とともに経営している東京の大正大学があり、専門教育としては京都に仏教専門学校、尼衆学校等がある。
 真宗の中には教団統制の機構を異にしているものが十派もある。京都にある竜谷大学、大谷大学はそれぞれ真宗の本願寺派、大谷派の徒弟の教育機関となっている。
 浄土宗の約三百万、真宗大谷派の約六百万を有する信徒は、数字の上では一往他宗派を圧倒している。しかし、それなりに寺院、僧侶の数も多く、平均して五十世帯で一人の僧侶を養わなければならず、檀家が十世帯もないという零細寺院さえもなかにはある。壮大な建物、ガラーンとした伽藍のなかには思いも及ばぬほどの深刻な動きがひそんでいるのである。

(破折) 浄土の三部経は方等部であり四十余年の説で権経方便の教である。後八年の法華経こそ実経であり、釈迦の出世の本懐であることは無量義経に「四十余年未顕真実」と、又方便品に「正直捨方便 但説無上道」と。しかるに念仏宗の開祖たちは捨閉閣抛といつて三部経以外の教を一切雑修雑行となして正法たる法華経を誹謗している。これは四十八願中の第十八願に「いかなる罪人悪人でも阿弥陀を念ずれば西方十万億土へ住生することができる、但し五逆罪と誹謗正法の者をば除く」という誓文に背くから、現在の念仏宗で住生のできるわけがない。まして法華経譬喩品第三には「この経を毀謗する者は無間地獄に堕つ」と説かれている故に「念仏は無間の法なり」と決定されるのである。

  四、禅 宗

(発生と歴史) 霊山会上で釈尊が、黙念として花を拈って大衆に示した時、すベてその暗示的意味を理解することができなかった中に、迦葉のみその意を悟り破顔微笑した、そして涅槃経にある「正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無相・微妙の法門があり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付属する」との経文通り伝承して、第二祖阿難・第三祖商(しよう)那(な)和(わ)修(しゆう)と代々相付し第二十八祖の達磨にいたつている ― このように禅宗ではのベている。
 達(だる)磨(ま)が禅宗の初祖である。梁代武帝の時(西紀五二〇年頃)印度より支那に来りて禅を説き、法を慧可(西紀四八七~五九三年)に伝えた。その後南禅・北禅の別を生じ、さらに臨済宗・曹洞宗・黄(おう)檗(ばく)宗等に分派していつた。
 わが国においては、仁安三年(西紀一一六八年)建仁寺の 栄(えい)西(さい) (西紀一一四一~一二一五年)が二十八歳の時入宋して臨済宗を伝え、貞応二年(西紀一二二三年) 道元 (西紀一二〇〇~一二五三年)が二十四歳の時、同じく入宋して曹洞宗を伝えている。以後は急激に興隆したが、その説くところの実践的主張が真実剛健にして忍耐力を要する武士の日常生活と契合し、鎌倉以後の武士道精神に大きな影書を与えている。
 さらに徳川時代に入って承応三年(西紀一六五四年)明の隠元 (西紀一五九二~一六七二年)が渡来して黄檗宗を開いている。

(教義と本尊) 禅宗は、戒、定、慧の三学のうちで、特に定の部面を強調している。即ち、仏教の真髄は決して煩雑なる教理の追究ではなくて、坐禅修道することによって直接に自証体得することができると説き、そのために、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏が指識として掲げられている。
 総持寺には本尊として釈迦牟尼仏、脇士に迦葉、阿難の二尊者を安置してある。           


(現状) わが国における宗派としての禅宗は臨済、曹洞、黄檗の三宗である。臨済宗は十四派に分れ、曹洞宗はよく統一していて福井にある永平寺と横浜の総持寺の二本山に分れて同一体制に服している。黄檗宗は京郡宇治万福寺を大本山としている。
 曹洞宗の百五十万、臨済宗妙心寺派の百八十万、同じく方広寺派の五十万、黄檗宗の十四万の檀徒数を除いては、いずれも小さなものばかりである。
 仏教大学の嚆(こう)矢(し)といわれる東京の駒沢大学は曹洞宗が経営し、京都の花園大学は臨済宗系の経営している学校である。

(破折) 禅宗のごとく経文は月を指す指であり禅は「見性成仏」である等と説くのは、仏法を破壊する天魔の業である。故に仏は涅槃経に「願って心の師とはなるとも心を師とせざれ」と説き、又「仏の所説に順わざる者有らば当に知るベし是れ魔の眷属なり」と説いている。又、不立文字を立てながら楞(りよう)伽(が)経(きよう)を引き、あるいは像法決疑経を引くのは自語相違であり、ましてこれらの経は四十余年の権経であり「未顕真実」と破られている経々ではないか。

  五、そ の 他

 華厳宗 杜順(とじゆん)(西紀五五八~六四〇年)が支那の華厳宗の第一祖である。彼は「五教止観」「華厳法界観門」を著して宗派の教義、教判の綱格を立て、智儼(ちごん)(西紀六〇二~六六八年)をへて法蔵(西紀六四三~七一二年)にいたって大成された。則天皇后の帰依をうけ宮中で「華厳経」を講じ華厳宗の教義を組織化した。
 わが国では、天平十二年(西紀七四〇年)に良弁(西紀六八九~七七三年)が新羅の僧審祥(しんしよう)(西紀?~七四〇年)をして「華厳経」を講ぜしめたのが始めである。以後、廬舎那大仏像を本尊として祀つた東大寺を根本道場として弘教につとめた。鎌倉時代をすぎると全く振るわず、現在東大寺を本山として五十数寺院を配下に有するにすぎない。

 法相宗 唐の初期に玄奘(西紀六〇〇~六六四年)が印度百三十余国を遍遊し、戒賢論師(西紀五二九~六四五年)より瑜(ゆ)伽(が)・唯(ゆい)識(しき)を学んで帰つた。

 一宗としての形体を具えたのは慈恩大師の時からである。
 斉明天皇の白雉四年(西紀六五三年)、道昭 (西紀六二九~七〇〇年)が入唐し玄奘に唯識・法相を学び、元興寺において弘教したのが、わが国の法相宗の始めである。以後、元興寺と興福寺を中心に流布されたが、奈良時代を盛期として衰微していった。現在は、薬師寺、興福寺を二大本山として三十数箇の法相宗の寺院があるのみである。

 律宗 四分律を根本として小乗経を所依の経とした律宗は、支那の南山律宗の開祖である 道宣 (西紀五九六~六六七年)―文綱 (西紀六三六~七二七年)― 道岸 (西紀六五四~七一七年)と伝承された。
 鑒真(がんじん) (西紀六八七~七六三年)は、道岸に菩薩戒をうけ、文綱に律を学んだ恆景(こうけい)(西紀六三四~七一二年)によって天台及び律を研究した。聖武天皇の天平勝宝六年 (西紀七五四年)に来朝した鑒真が、東大寺に戒壇を建てて聖武天皇・光明太后・皇太子を始めとし四百余人に戒を授けたことから、わが国の律宗がはじまる。後に唐招提寺が建立せられ根本道場と定められた。鎌倉時代に忍性良観(西紀一二一七~一三〇三年)が出て大聖人様に敵対しながらも、幕府の権力者の帰依をうけて隆盛をきわめたが、以後は代々衰える傾向にある。
 現在では、唐招提寺を総本山として僅かにその余命を保っているにすぎない。

 三論宗・成實(じようじつ)宗・倶舎(ぐしや)宗 般若の空を説くところの三種の論・中観論・十二門論・百論を所依の論として、吉蔵大師(西紀五四九~六二三年)が支那において開いた宗派が三論宗である。わが国においては、仏法渡来直後の欽明天皇から推古天皇にいたる七・八十年間、教盛期を劃したのみで、だんだんに華厳宗に吸収されていってしまった。
 成実宗は、百済の僧道蔵 (西紀六七三~七二一年)が「成実論」の疏を作って講述したが、独立一宗としては存続せず、三論宗の附宗として学問研究せられたにすぎなかった。
 倶舎宗も成実宗と同じく小乗の低い教であり、わが国では法相宗の附宗とされ特別に発達するにいたらなかった。
今日、わが国には以上の三宗に属する寺院は一箇もない。

 

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