第六章 宗教批判の原理

 現在の日本には種々の宗教があるが、世人はこれを批判する基準を知らない。特に智識階級ぐらいはこれを知っていてよいはずだが、宗教教育のないために全く盲目であり啞法(あほう)がの尊者のようであるのは遺憾というより外はない。
 しからば宗教批判の原理とは何か。
 文証・理証・現証の三証と、教・機・時・国・教法流布の先後という宗教の五綱と、五重相対等について考察しなくてはならない。

  第一節 文證・理證・現證(三證)

 宗教を批判するにはまず文証・理証・現証ということが大切である。
  一、文 證

 Aなる宗教があった場合、まずその宗教が依経とするものは何かということを究めなくてはならない。第一は文の証拠を求めるのである。仏教以外の宗教なら、仏教教典とAなる宗教の用いる教典とを比較研究しなくてはならない。教典、教義のないような宗教は宗教とはいえないのである。
 仏教の最高哲理を知らない者はいざ知らず、これを知る者は、仏教以外の宗教の教文は低級なものであることを、ただちに知ることができるのである。
 Bなる宗教が仏教内の教えである場合は、第三節の五重の相対等によって、その経文の高低、深浅、価値の正反などを判定するのである。これが文証を求めるということである。

  二、理 證

 理証とは文証があるとして、その文証が哲学的に研究して現代の科学と一致しかつ理論として文化人が納得できるかどうか、又は肯定し得るかどうかを研究しなくてはならない。いかに経文は立派でも哲学的価値がなかつたならばこれは捨てなければならない。
 哲学とは思惟することであるが、これがいかに立派に思惟されていても科学的でなくてはならない。すなわち普遍妥当性を有していなくてはならない。同一原因は同一結果を時と所とによらず具現しなくてはならない。かつそれが最高の価値をもたらす結論を有しなくてはならない。すなわち幸福を証明づける理論でなくてはならないのである。しかもその幸福は万代不易の幸福であって、いかなる事件にもたたきこわされるようなことのない幸福でなければならないのである。

  三、現 證

 現証とは事実・生活の上に証明されるものである。もともと最高の宗教は人間革命にあり宿命の打破にある故にこの理を完全に説明できる科学でなくては最高の宗教とはいえないのである。すなわち現証とはその宗教を実践するに当たっていかなる現実の証拠が生活に現れるかという実験証明である。太平洋戦争中は日本全国民がいかに神様を拝んでも神風は吹かないし幸福という現証も起つてこなかつたのである。日蓮大聖人も現証には非常に重きをおかれている。立正安国論に浄土宗を破折せられておられる時も現証論を次のごとく御説き遊ばしている(御書二五頁)
「慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く『唐の武宗皇帝・会昌(えしよう)元年勅して章敬(しようきよう)寺の鏡霜(きようぞう)法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝えしむ寺毎に三日巡輪すること絶えず、同二年回鶻国(かいこつこく)の軍兵等唐の堺(さかい)を侵す、同三年河北(かほく)の節(せつ)度(ど)使(し)忽(たちま)ち乱を起す、其の後大蕃(だいばん)国更(ま)た命を拒み回鶻国(かいこつこく)重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦(しん)項(こう)の代に同じく災火邑里(ゆうり)の際に起る、何に況んや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱を撥(おさ)むること能わずして遂に以て事有り』(已上取意)。此れを以て之を惟うに法然は後鳥羽院の御(ぎよ)宇(う)・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然らば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑う事莫(な)かれ汝怪むこと莫かれ唯須(すべからく)く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截(たつ)べし」
 以上は邪教が国家に及ぼした現証をお教え下さつたのであるが、個人を含んでの現証をお説き下すつたものに弘安二年の聖人御難事御書がある。(御書一一九〇頁)

「大田の親昌・長崎次郎兵衛の尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四候、日本国の大疫病と大けかち(飢渇)とどしうち(同士打)と他国よりせめらるるは総ばちなりやくびやう(疫病)は冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」

 かくのごとく宗教を論ずるに当たっては証拠を第一とするのである。日蓮大聖人が末法の仏であると断ずるにも文証として法華経の上に明らかであり、その文証通り大聖人の御生活に現われたが故に我々は信ずるのである。
 法華経の中に「而かも此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後おや」とあるが、釈迦滅後に大聖人ほど法華経のために憎まれあだまれた方は一人もないのである。これは現実の証拠であり、又これが末法の時であるから理証の上からいっても末法の本仏なのである。
 このように仏法においては現証を尊ぶのであって、大聖人が三三蔵祈爾事(御書一四六八頁)に「日蓮仏法をこころみるに道理と、証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」と仰せられているのがこれである。しかし又文証通り理証の通り現実生活に実験せられることを尊ぶからといって、セキが出た、それ現証だ、風邪をひいた、それ現証だなどというのは誤りである。