第三節 末法の本仏日蓮大聖人

 さて末法の仏はだれであるかということについては、釈迦の最高の仏典であり、かつ末法の予言書である法華経に一度たちもどらなくてはならない。この法華経勧持品第十三の二十行の偈に釈迦の仏法の利益が消え失せた時、末法出現の仏の相貌(そうみょう)が厳然と予言せられている。この予言書を根幹として又所所にある予言を傍として、日蓮大聖人の御遺文を拝し奉るに、末法の仏は日蓮大聖人以外には絶対に求められないのである。
 されば釈迦の仏法は法華経二十八品であり、日蓮大聖人の仏法に「南無妙法蓮華経」の七文字の法華経であらせられる。この七文字の法華経の行者は末法の教主であらせられることは疑いない。日蓮大聖人が末法の御本仏であらせらるるという御証文は数限りなくあるが、その二、三を引いて示すことにする。

 

開目抄(御書二三二頁)に云く
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん、日本国の位をゆづらむ法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるベからず」

 以上の第一段は法華経の行者としての確信であらせられる。第二段は末法の御本仏としての御確信である。
「柱とならむ」とは一切衆生の頼る所、これ仏ではないか。
「眼目とならむ」とは一切民衆の眼目これ仏の眼目ではないか。
「大船とならむ」とは大船あに大乗にあらずや、大乗はこれ仏の御本意なり。
 

 このように主師親三徳の本仏なりと御宣言遊ばされている。日蓮大聖人を除いてどこに文・理・現の三証の上に立って末法の仏と宣言せられたる方ありや。
 又顕仏未来記に釈迦が末法出現の仏の相貌の予言を実証した御自身を強く強くのベられて(御書五〇八頁)
「汝が未来記如何、答えて曰く仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づベきなり」と。

 東土の日本より出ずる仏法とは何者ぞや、これ日蓮大聖人の仏法にして東洋へ流布すベき七文字の法華経の仏教である。されば今後の東洋の仏教は、法は南無妙法蓮華経、仏は日蓮大聖人、僧は日興上人門下の日蓮正宗教団であること疑いないのである。