第五章 末法の民衆と日蓮大聖人との関係

  第一節 釈迦と我々が関係なき理由

 仏教上、仏と称せられる方は数限りなくおられるが、その数限りない仏は、時と処と衆生に応じて、一人一人御出現になることになっている。決して一度に二人の仏は出現にならないのである。釈迦は今から三千年前に印度に御出現になって印度・支那・朝鮮・日本と二千年の間利益をこれらの国々の衆生に御与えになったのである。今から三千年前と千年前の二千年間の衆生は釈迦という仏でなければ利益のうけようのない衆生で釈迦はこの衆生に応じて出現せられたのである。三千塵点劫という時に又大通智勝仏という一人の仏がおられた。この仏は釈迦と前世に御父子の縁を結んだ方であるが、仮にこの仏が釈尊の代りに印度に出現したと考える。仏である以上どちらでもよいと考えるであろうが、それは誠に間違った考えである。大通智勝仏の持っている「法」は釈迦の仏法の中の衆生には、役に立たないのである。だから大通智勝仏では印度・支那・朝鮮・日本の人々は何の利益もうけることができない。衆生の機根が大通智勝仏に合致しないから大通智勝仏の「法」は今から一千年以前の日本・朝鮮・支那・印度の人々に適していないのである。だから大通智勝仏をかりに衆生が仏様だからといって拝んでみても何の利益もない。大通智勝仏は三千塵点劫前の衆生には大利益があったのだが三千年前の印度では紙屑みたいなボロ仏である。もしもそのとき釈迦仏と一緒に出生したと考えると、今度は釈迦の衆生を救う邪魔になってくる。そして釈迦を拝んで大通智勝仏を拝む者を折伏した者には大利益があり、これに反対した者には大罰があるのである。

 このように番々の成道といっても仏も衆生の機根と時とに応じて御出現になるので仏にも当番制のようなものがある。又どの仏も衆生を利益するのが目的だから「御出現」に当たってその時の衆生を利益するのに力のある「法」をもつておいでになる。その法は仏と仏によって違うもので、仏の法であるからどれでも、どの時代でも法力・仏力が顕現するとは限らないのである。
 たとえば七つの子供の着物を四十歳の人に着せようとしてもダメであるように、四十歳の人のために仕立てた着物は七歳の子供に着せられないのと同じである。だから大通智勝仏の法の時に釈迦仏が現われて、釈迦仏の法を説いても、一時の衆生には何の役にも立たないのである。 

 以上の例でもわかるように、今日末法の法は釈迦仏の時ではないのである。釈迦の法はもう死んだ法で何の利益もないのである。この故に釈迦仏法の経文をよりどころにしている天台宗とか念仏宗とかのお寺で仏や菩薩を拝んでいるのは、仏法の定理を知らず去年の暦を見ている徒輩で馬鹿というより外にはいいようがない。釈迦の仏法が今日に役にたたないというと人々は仏法とは釈迦の説いたものでないかと不思議がるに違いない。しかし事実は釈迦自身が末法といいきっている。末法とは「すえの法」ということではない。釈迦の仏法に功徳のなくなった時ということで、釈迦滅後二千年以後を指すのである。大聖人は撰時抄に大集経を御読み遊ばされて、次のごとく仰せられている。(御書二五八頁)

「大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には禅定堅固(已上一千年)次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)次の五百年に我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等」

 以上の白法とは釈迦の仏法で隠没せんとは釈迦仏法がなくなる、釈迦の仏法には功徳がないとのことで、末法すなわち釈迦滅後二千年後たる今日は、釈迦のいかなる経典によっても我々は悟りえないし救われもしないのである。
 大聖人は又顕仏未来記に次のごとく御仰せである。(御書五〇六頁)
「試みに一義を案じ小乗経を以て之を勘うるに、正法千年は教・行・証の三つ、具さに之を備う、像法千年には教・行のみ有つて証無し、末法には教のみ有つて行証なし等云云、法華経を以て之を探るに、正法千年に三事を具するは、在世に於て法華経に結縁する者か、其の後正法に生れて小乗の教・行を以て縁と為し小乗の証を得るなり、像法に於ては在世の結縁微薄の故に小乗に於て証すること無く、此の人・権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず、末法に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有って行証なし、大乗には教行のみ有って冥顕(みようけん)の証之無し、其の上正像の時の所立の権小の二宗・漸漸末法に入て執心弥(いよいよ)強盛にして、小を以て大を打ち権を以て実を破り、国土に大体謗法の者充満するなり、仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵よりも多く正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり、此の時に当たって諸天善神其の国を捨離し但邪天・邪鬼等有つて王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し、法華経の行者を罵詈(めり)・毀辱(きにく)せしむべき時なり」

 以上のように釈迦は印度に出現した二千年間の仏であって、我々今日の民衆の仏ではない。この理由によって印度の釈迦の経典を依経とする宗教は単なる仏教の形骸であって何の利益もないのである。我々は釈迦仏教に縁のない民衆であることを知らねばならぬ。