第四節 評價法

 価値内容は整然とした系列を持つものであるが、実際生活においてはこの価値判断に迷う場合が多い。そこで次のような価値判定の規準が必要となる。

   一、美醜

 好き嫌いにとらわれて、利害を忘れるのは愚である。いわんや善悪を忘れるおや。
 損を好み得を嫌う人間はないはずであるが、一時的な感情で物事を判断するため、せっかくの利益を逃がして大損害を招くのがこれである。幼児の食物の食ベすぎだとか、一生の大切なる結婚を好き嫌いで決めて後悔する等の愚かさは誰でも気がつくが、日常生活にはこの種のことが実に多い。無理とは知りながら負けることが嫌のあまり我がままを通そうとしたり生活の根本問題たる宗教を好きだ嫌いだ先祖伝来だなどといって我見を捨てようとせず、一身一家の利益も国家社会の善もかえりみようとしないのもこの類いである。

   二、利害

 目前の小利害に迷って遠大の大利害を忘れるのは愚である。
 甘言に乗ぜられて詐欺にかかり、病気がなおる金がもうかると誘われてインチキ宗教に深入りしていくのが、目前の小利に迷って遠大の大利を忘れ大害を招くものである。又悪いとは知りながら悪の世界から抜け切るための小害を恐れて、ますます悪に悪をかさねてゆく臆病者もこの愚者である。

   三、善悪

 損得にとらわれて善悪を無視するは悪である。
 好き嫌いの一時的刹那的であるのに対して利害損得は永久的であるごとく、利害の個人的にくらベれば善悪は社会的全体的である故に、一身一家の利益に目がくらみ社会国家の公益を害するを悪人という。黄金万能の守銭奴や、国法には背反しないからといって、自己の名誉や地位にのみこだわつて本来の使命を忘れている代議士や官僚も実は悪人なのである。

   四、不善不悪

 不善は悪であり、不悪は善である。いずれもその最小限ではあるが結果はこうなる。
 不善を善と考えて悪とは違うと思い、法律にふれさえしなければ、不善でもかまわないと誤解している所に、現代の病根があり独善偽善者が横行している結果となっている。悪をするのと善をしないのとは同一の結果を別言したにすぎない。しかるに悪をするのは悪いにきまっているが、善をしないのは悪でないから善いと思って平気でいるのが現代の常識といってよい。これが大きな病根である。

   五、大善悪

 小善に安んじて大善に背けば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる。
 大悪に反抗するはもとより困難であるが、大善に背かず進んでこれを尊敬することはさらに至難である。故に最大善の出現に当たってそれ以下の中小善が悉く大悪に陥ることは、価値観においてのみうなづかれるところである。
 たとえば君が闇夜に燈火が欲しい時、私は電燈と提灯をたくさん持っているのに君には提灯を与えたとする。君は不便な思いをしながらも提灯を持って用事をすませた後、実は私がもっと便利な電燈を持っていてしかもこれを隠していたことを知ったなら、君は提灯を借りた恩よりもかえって私を怨むであろう。即ち電燈のない時や消えた時に提灯は役に立つのであって、電燈の出現した後の提灯はかえって「不便だ」「暗い」という感情が先に立つ。
 善の価値においても全く同じであって、小善は大善の出現する以前には役に立つが、大善の出現した時これに従わなかつたり、あるいは怨嫉を抱いたりするなら、小善がかえって大悪と変ずるのである。同様に小悪でも大善に反対すればかえって大善となるのである。

   六、極善悪

  同じ小悪でも地位の上るに從って次第に大悪となる。いわんや大悪においておや、極悪となりその報として大罰を受けねばならない。善はその反對である。
 社会の地位が上るに従って善悪ともに果報の程度が上昇する。
 その日暮しの貧しい家庭から、或は金品を盗んだり或は直接間接にこの良民を迫害したとする。同じ罪でも市民と巡査と警察署長と知事と大臣とでは社会に対する影響力が異り、従ってその罪報も異る。同じ理由によって地位は低くても善を教えるべき教師には罪報が重い。その故は青少年を相手とするが故に、苗代において害毒を流す結果となるからである。
 果してしからばこれらの更に上流に立って害毒を流す僧侶神官等の罪悪は更に重大である。たとえ小悪でも最大悪となり、極悪の果報を結ぶ。いわんや大善に反対して大悪に加担し、大悪に迎合して大善を怨嫉するにいたっては極重罪の果報を受くベきことは必然である。この法則は悪人よりは善人、善人よりは大善人として社会の尊崇をほしいままにして高位高官に位する高徳先覚の深くいましめ厚く慎しむベきことである。

   七、空善悪

  利害損得を無視した善悪は空虚であり、いうべくして行われないものであ
  る。

 個人の利害損得即ち生存権を無視して、ただ国家のため社会のためと呼びかけるのは足の地につかない空虚な善悪である。
 自己の生命を滅して公益に奉仕することはきわめて特定の瞬間にのみ行われるべきことであって、この非常道徳を平常の生活に強行しようとしても無理である。戦時中の「滅私奉公」のごときは、平常の生活に私欲を滅することさえできないのに、まして生命を滅せるわけがない。真に滅私奉公が要求されるのは、人生に唯一最高の目的観が確立された上で、その目的に殉ずるのでなくては意味がない、犬死という以外にないのである。

   八、真偽

  眞偽は実在を意味し、価値は人生との関係を意味する。故に真理は幸福の要素ではない。
 真理は実在を如実に表現したものであり、価値は対象と人生との関係性を意味する。このコップに水が入つているというのは、それが事実であれば真理であり、事実でなければ虚偽である。価値はその水を飲んだり或は飲みたくないといって嫌う状態である。故に幸福というものは客観的にみているだけではなくて、実際の行動の中に存在する。

   九、正邪

  正邪は善悪と全く内容が違う。悪人の仲間では悪が正で善が邪であり、曲った根性の人には正直がかえって邪悪として嫌われる。
 右に例示したような少数異常の精神状態の人間には正邪の判定は区々であっても、大多数の正常者は、すベての人の好むところの美と利と善とを正として好み、嫌うところの醜と害と悪とを邪としてにくむ。
 アリストテレスは善悪を正邪によって規定しようとしたがそれは逆である。人間の認識性情に反している。すなわち公益が善であって、通常の社会においては善が正で悪が邪である。泥棒の社会では盗むことが正であり、これに反するものは邪となる。

   十、半狂人格

  以上のような簡単な道理がわからない者は狂であり、わかって従わない者は怯(きよう)である。
 何をもつて半狂人格というか。一方で肯定しておきながら他方では否定して平気でいる者は、人格に統一を欠くが故である。すなわち以上に示した価値判定の規準のごときは、すべて生活体験の上から帰納される簡単な道理であるから、これを説明された時に冷静に考えるならば誰でも納得のできることである。
 しかし道理として納得しておきながら実際の生活となれば全く別にする。好き嫌いにとらわれて利害を忘れてはいけないという道理はわかっても、口に苦い良薬を拒み、耳に逆らう忠言をすなおに聞き入れようとしない。これを称して半狂人格者というのである。