第二章 價値論
価値論をここにのべる理由は第一章の生命論において、永遠の生命の感得、生命の実相の把握をするために、生命についての深い考察をなした。この生命論は仏教哲学の本源である。しかして、その生命の本然の慾求たる幸福生活に考察を加え、一切の生活現象を批判するに必要な哲学的論拠を与えようとして、価値論のあらましをのべるのである。
第一節 價値論
従来の思想・学問・教育等はあらゆる分野にわたり、昔から真・善・美の範疇を根本にして物事を考えてきている。その哲学を学びそれを説く学者たちが誤謬に落ちいつていて説きつくすことをえなかつた「価値」を、生活現象の経験の立場から完全に説きつくされたのがこの牧口先生の価値論である。ここに始めてカント等のあらゆる哲学がその矛盾を見破られたのである。
第二節 認識と評價
人は何のために生活しているかといえば、みな幸福を求めているのである。この幸福の内容は価値で価値獲得の大小、正反によって幸福に相違が生ずるのである。
すなわち人間のいとなみはすベて価値を作り出すこと以外にはない。ところで今までドイツ哲学で考えられてきた真・善・美の系列は、そのまま幸福の内容であると決められるであろうか。
第一に真理とは何か。よく真理を求めるという事が人生の目的であり、幸福と真理を同じように考えているが、真理とは「あるがままのものをあるがままに認める」ことで、それは認識の概念になるのである。従って真か偽か(本当かウソか)を追求するのは認識概念の追求であるといえる。例えば太陽が地球の周りを動くと考えた天動鋭と地球が自転すると考えた地動説の二つの学説は、どちらが本当でどちらが偽か、要するにこれは認識の問題である。
しかしこの二つの説の真偽がすぐ日々の生活に関係を有するものではない。
太陽がまわろうと地球がまわろうと我々一日一日の生活には直接の影響がない。しかし認識の誤りは科学の発達をそ害したりして大きな損失を人生にもたらすことがある。この故に評価の問題としてではなくて認識の問題として重大なのである。正しく認識された真理は又評価の対象となることを知らなくてはならない。重ねて例をいえばお米はどのようにして作るかという方程式を知ることは真理の概念の問題であって、お米を買売する、お米を食ベるという問題とは別であり、作り方をいくら知っていても満腹にはならないのである。真理とは認識の概念であることがわかれば真は他の美・善の系列とは別にしなければならない。つまり真理は価値内容でなく、価値内容たる善や美とは全く別質なものであり、牧口先生はこの点を価値論においてきびしくわけておられるのである。
それでは価値とは何であろうか。価値とは「客体と主体との関係性」即ち我々の生命と外界との関係から生ずるものである。従って真理が認識概念であるに対して直接自分に関係を持つ評価の概念で関係性であるからそこに大小正反の程度が生れ、絶対なものではなく相対的概念である。
従来の考え方によれば物自体に価値があるとして、客体が価値を決定すると考える唯物論、心がもとで価値を生じ主体がこれを決定すると考える唯心論の二つであるが、これはどちらも偏見であり正しい価値の定義にはならない。
価値は関係性による相対的なものであることを例によってみると、のどのかわいた人にとって冷い水を得れば満足できるが、いくら貴くてもダイヤモンドでは満足できない。「猫に小判」ということばがあるが、これもそれと同じである。
又、白米は美味しいといつても空腹の場合はそうであるが、満腹の時は反対である。又美しい画を眺めている人がより以上の美しい画を見れば前の画は美しいと感じなくなるのである。このように価値は関係性により無限の段階があって変化するものである。このように真理に対して価値は全く別質なもので、美・利・善の三つがその内容であると決定すべきである。
従来の哲学がこの認識と評価の内容を混合した場合、実際の社会生活に真理観と価値観が混用され、特に教育面において正しい価値観の養われていないための悪影響を非常に感じさせられるのである。
第三節 價値内容
価値には美・利・善の正価値に対して醜・害・悪の反価値がある。
一、美とは何か
美とは、自分の目・鼻・耳・舌・皮膚・心の六感に訴えて、外界と関係することによって生ずる価値のすベてをいうのであり、好きとか、楽しいとか、感情的の判断である。これに反する価値は醜になり嫌いという判断になる。 美醜の価値はその評価主体が部分的で一時的であることが特色であり、子供の生活は、多くこの価値生活である。
二、利とは何か
利とは生命全体、一生の生命を規準として外界と関係を生ずる価価であり、自己の生命の発展を助けるものは、すベてこの内容に含まれる。美の価値が全体生命、氷久の生命に発展すれば利の価値となる。これに反して生命の発展をさまたげる力はすべて害となり反価値である。大人の生活は多くこの利害の価値生活である。
三、善とは何か
公利を善といい公害を悪というのである。美・利がともに個人の生命を評価主体としているに対して、善は美・利を生む行為をその社会が判定する価値である。父親が働いて家族を養う、作曲者が作曲して民衆を楽しませる、農民が米を作る、これらはすべて善である。これに反して他人に迷惑をかける、その社会に醜・害を与える行為はすべて悪である。よく道徳でいう正直とか心がすなおである等の観念的心の問題をさすのとは、まったく異るものである。以上の正反共に三種に分ける価値は、ちようど左図のごとき系列をなす。
即ち美より利、利より善と価値内容は根本的になり、重要な価値となる。