壽量品の講義(大白蓮華第七十一號 昭和三十二年四月一日発行)

 このように人間は死なないでは困る。また死ぬ時がわかっているのも困る。私は、今年で数えで五十八になりましたがね。この間の二月の十一日、五十七年間生かしてもらいました。どうもありがとうこざいました。(笑)私が、数え年の五十八の十月二日に死ぬなんてわかっていたとしますね、今ごろ、こんなノンキに講義なんかさせられたら困ります。(笑) 十月二日ならいくらもないです。
 あんた方だってそうでしょ、もう三日しか生命がないなんていったら、こんな講義なんか聞いていられるかい、忙しくて。ですから人間は必ず死ななきやならないものであって、死ぬ年月がわからないように出来ているところに、世の中の面白さがあるのです。これが妙なんです。なればこそ、御本尊を拝むようになる。
 実に生命というものは、面白いものです。この爪がなくても困るんですよ。心臓をどうしてここへおいたものか、人間が、こしらえたものだったら、ヘソの下に心臓のある人だとか、右の手のところに肺臓があったりしちやってね。(笑) 赤ん坊のときから、ちゃーんと、心臓は心臓、肺臓は肺臓とちやんとある所にあって動いている。少し加減が悪いともう病気だなんてね。実にウマクできたものだと思います。それで、死ぬときをわからせないでいて、本人は生きたがらせておいて死なせるようにできているのだから。(爆笑)
 ですから、大聖人様が、本有の生死である。本有の退出であると仰せられているのは、ほんとうにその通りだと思いますよ。そう思うと、御本尊様を拝まずにはいられなくなる。
 大聖人様の仰せ通り、御本尊様の功徳によって権・迹・本の仏の因行果徳を承継して、そうして死ぬ前には、ほんとうに幸せで、楽になって死なねばなりませんからな。信心さえ強盛であれば、御本尊様を信じ切るならば、必ず死ぬ前何年間ほんとうに丈夫でお金があって、家が平和で思いなりになってどうだ、いいだろう……そのようになるとおっしゃっているのだよ。ウソじやない、なるのだ。  
 そうでなければ、死後の成仏が証明がつかない。死ぬまで貧乏したり病気したりしててたまるものか。病気の者ならなおる。心も平和で落ち着いて、行きたい所にも行ける、女房にも文句をいわれない、いい世界だぞ、これは。(笑) そんなになりたかったら、早くそうなって死ねよ。(笑) そうなると苦労してる間の方が見込みがあるねえ、まだ生きるということがハツキリしてるからねえ。そう思うと安心でしょ、本有の貧乏だ、こうなれば。(笑)