第三節 大利益論
            〔註〕この節は戸田先生が「永遠の幸福」「絶対の幸福」を何回か講義され大白蓮華に掲載されたものを抜粋した。

   一、永遠の幸福(大白蓮華第二十號「昭和二十六年十二月一日発行」)

 もし大聖人の御遺文より成仏の御文証を引いたならば数限りない。今反対に成仏しないという事をお悲しみになってお書きになった御文証を引いてみよう。


 成仏用心抄に云く(御書一○五六頁)
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるベし」
 

  このように妙法蓮華経の信仰は成仏するかしないかが根本の問題である。
 成仏するという事が仏法修行の根底であり、成仏するほどの幸福はないと大聖人は仰せになっておられるのである。されば開目抄に(御書二三七頁)
「日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず、後生には大楽をうくベければ大に悦ばし」という仰せは深く味うベきである。
 しからば成仏とはいかなる事か。とうてい我々ごとき、凡愚にはこの御境涯は説くことあたわずとはいえども、各自の信心の智解の千万分が一ともならんかと思って説いてみる。
 

 永遠の幸福を獲得するということである。我々の生命というものはこの世限りのものでは絶対ない。永遠に生きるものである。永遠に生きるのに生まれてくるたびに、草や木や犬や猫や、又は人となっては貧乏・病気・孤独・馬鹿等の生活をくり返す事は、考えてみてもとうてい忍びえない事である。
 成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生れてきた使命の上に、思うがままに活動してその初期の目的を達し、誰にもこわす事のできない福運をもってくる。このような生活が何十個、何百回、何千回、何億万回と楽しくくり返されるとしたら更に幸福な事ではないか。
 この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、可哀想というより他にない。この成仏の事について深く思索して見るために次の御文証を引いてみよう。


 三世諸仏総勘文教相廃立の御書に(御書五七四頁)
「三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり、滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来って身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること、滞り有る可からず、三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食(おぼしめ)して世間に出現し給えり乃至然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止(もだ)せる謂(いわ)れ有る可きや、此の度必ず必ず生死の夢を覚まし本覚の寤(うつつ)に還つて生死の紲(きずな)を切る可し今より已後は夢中の法門を心に懸(か)くべからざるなり、三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障(さわ)り無く開悟す可し自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰(くも)り無し、三世の諸仏の勘文是くの如し秘す可し秘す可し」
 

 三世の諸仏の御本意に叶(かな)いとは、大御本尊を信じ題目を唱える事である。二聖・二天・十羅刹の加護をこうむるとは大御本尊の御利益をこうむる事である。上上品の寂光の往生をとげとは成仏の事である。須(しゆ)臾(ゆ)の間に九界生死の夢の中に還り来って身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れとは、即ち又生命が再び還って人として或は目的を持っている生命として活動を起す状態である。このように成仏といっても特殊の所に生き長らえているのではなく、たえず九界の世界に遊戯している事を仰せである。内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合してとは、再び大御本尊にお目にかかる事をいうのである。自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞りあるベからずとは、慈悲の境涯より大御本尊の一分の御目的を頂戴し、生まれてきた所のその生命の目的に対して充分なる価値活動をなして、自らも楽しみ他も利益して自在無(む)礙(げ)の生活を感ずることである。かくのごとき幸福こそ真実の幸福といわねばならない。この成仏の境涯を得んと願うことをさらに重ねて吾人は願うものである。


 さて以上の功徳について重ねていわねばならぬことは、初信の功徳と一生涯を通じて顕われる功徳についてである。
 

 初めて信仰した者には必ず功徳がある。これは初信の功徳ともいうべき功徳である。この初信の功徳の絶対なることを信じねばならない。

 なぜならば今時大聖人様滅後七百年の今日においては、本尊の雑乱甚しきものがある。日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道の本尊である。姿は仏に似せようと神を顕そうと、みな内証においては天魔外道である

 しかるに日蓮正宗の御本尊は、大聖人の御生命御自身であり、三世十方の諸仏の本尊であり題目である。故にこの大御本尊を信じ奉れば三世十方の仏菩薩はこの信者を善哉善哉とほめ奉り、天魔外道は恐れをなすのである。

 

 信力行力が強ければこれに応じて法力仏力が強く顕れて、ここに利益を感ずるのである。これ本尊の大威力示現の相であって疑うことのできない事実である。

 御本尊の法力・仏力をお示しになって最初の御利益を得たのちは、各自のもつ過去の罪報によって、消さねばならぬものを消し、受けねばならぬものを受けて、罪報を消すのである。普通には罰というのである。これとて信力行力の強い者は護法の功徳力によって軽く受けつつ、真の成仏への道をたどるのである。このことは佐渡御書及び開目抄につぶさにお示しであれば、よくよく拝読すべきである。


 さてかくして信力行力の強い者は、必ず成仏する。その成仏の証拠として現世においてあらゆる幸福を得るのであって、その幸福を知って未来の成仏を確信しなければならないのである。いいかえれば初信の功徳は大御本尊に威力のある証拠であり、御本尊を信じた者が一生の間に必ず幸福になるということが、成仏するという証拠となるのである。


 このように御利益を論ずればだんだんと高く深くなってくるが、吾人をもっていわしむれば大御本尊を信奉し奉る功徳というのはこれだけのものではない。日寛上人の御本尊の功徳無量無辺という御言葉が思い出される。無量無辺であるから私ごとき者の説きつくせるものでは絶対にない。私にこれ以上の会通を加えることは大御本尊に対して申訳ないことであるが、ただ有難さのためにこれを述ベる。

 

 成仏とは仏になる仏になろうとすることではない大聖人様の凡夫即極、諸法実相との御言葉をすなおに信じ奉って、この身このままが永遠の昔より永劫の未来に向って仏であると覚悟することである

 

 もったいなや、かかる不浄の身が御本尊を受持し奉ることによって仏なりと覚るとは、何という有難いことではないか、この果報こそ何ものにもかえがたい果報であって、ひとえに大御本尊の大功徳である。なにをもって御供養し奉らん。生きては折伏を行じ死してはたとい地獄の衆生になっても、御本尊を胸にだきしめ、畜生道に行っては大聖人の御衣のはじをくわえ、生々世世ただ御本尊に離れまいと朝夕お願いし奉るばかりである。


 願わくば諸氏は、私にまさる大利益を得られんことを。