四、生命の連続
生命は永久であり、永遠の生命であるとは人々のよくいう所であるが、この考え方にはいろいろの種類がある。
ある人は観念的に唯「永遠」であると主張してボンヤリ信じているが、こんな観念論的な永遠は吾人のとらない所である。
又子孫に生命が伝わって、その子孫に伝わる生命の中に自分が、生きていると考える者もあるが、これでは永遠とはいえまい。もし子孫が断滅したならば自分がなくなるではないか。地球が亡びたら亡くなるような生命では永久とはいえない。又子孫と自分との関係において、現に今生きている息子の中に同じく活動している自分の生命があることになり、甚だ不合理である。このような人は自分の死後の生命をどう考えているか。子孫の体を自分の墓場のように考える浅薄な生命観であり、永久の生命を知っているとはいえないのである。
かの有名な高山樗(ちよ)牛(ぎゆう)先生が、「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」といわれたことを記憶している。樗牛先生は偉大な文学者であるだけに、私は非常に悩んだものである。もし先生の言葉のごとくならば、平凡な我々や犬や猫は永久な生命といえないことになる。よってこの場合の永遠の生命に普遍妥当性がないわけである。長い間本当かウソかと悩みつづけた結果、彼は偉大なる文学者ではあるが、死後の生命に関しては甚だ浅簿な考え方であるという結論に達した。
又少しく理論的であるけれども事実とは相違している生命論に、生物には何か霊魂というようなものがあり、それが永久に伝わって行くのだと考えているのがある。これはちよっと聞くと真実のように思われるので、相当の学者や多数の人々によって主張されている。しかしながらこれも仏教哲学の対象としては全然無価値なものである。釈迦は涅槃経の中において徹底的にこれを否定している。即ちこの考え方は邪見であって正しいものではないとしているのである。しからばどんな風にしてあらゆるものの生命が連続するのであろうか。死後の問題はなかなか仏教哲学でも最高に属するもので、その素養のない人に対しては誤りを起すおそれがある故にこれを省くことにし、きわめて常識論的に取り扱うから、その点は諒承されたい。
寿量品の自我偈には「方便現涅槃」とあり、死は一つの方便であると説かれている。例えてみれば眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的から見れば単なる方便である。人間が活動するという面から見るならば眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、又潑(はつ)溂(らつ)たる働きも出来ないのである。そのように人も老人になったり病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便によって若さを取り返す以外にない。
仏法の極理は一念三千であるが、死後の生命もまた一念三千との関連において解決されていることはいうまでもない。さて開目抄に「一念三千は十界互具よりことはじまれり」と仰せられ、観心本尊抄では十界について次のように述ベられている。(御書二四一頁)
「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平かに或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり、瞋(いかる)は地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろか)は畜生、諂曲(てんごく)なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり、(乃至)世間の無常は眼前に有り豈(あ)に人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し云云。」
我々の日常生活における心の状態をよくよく思索するならば、瞬間瞬間に、一念一念と起きては消え、起きては消えているのが貪りとか喜びとか怒りである。そして二つの念が一時に起ることは決してありえないのである。ここで少し説明を加えたいのは、前掲の本尊抄に「仏界計り現じ難し」とあるが、その仏界を現ずる縁となるものは何か。日蓮大聖人の仏法の極理は事行の一念三千であり、実践の形態は三大秘法にある。故に本門戒壇の御本尊を信仰することのみが、その縁となって即身成仏を得られるのである。ただし、この点に関しては別の機会にくわしくのべたいと思う。
我々の心の働きを見るに、喜んだとしてもその喜びは時間が立つと消えてなくなる。その喜びは霊魂のようなものがどこかへ行つてしまったわけではないが、心のどこかへ溶けこんでどこを探してもないのである。しかるに何時間か何日間かの後又同じ喜びが起るのである。又ある事によって悲しんだとする。何時間か何日かすぎてその事を思い出して、又同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと後の悲しみと立派な連続があって、その中間はどこにもないのである。
同じような現象が我々日常の眠りの場合にある。眠っている間は心はどこにもない。しかるに目をさますや否や心は活動する。眠った場合には心がなくて起きている場合には心がある。あるのが本当かないのが本当か、有るといえば無いし無いといえば現われてくる。このように有無を決定できないとする考え方を、これを空観とも妙ともいうのである。
このようにこの小宇宙である我々の肉体から、心とか心のはたらきとかいうものを思索し、その上に仏法の哲学の教を受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。
前にものべたように宇宙は即生命である故に、我々が死んだとする、死んだ生命はちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、喜びと喜びの間に喜びがどこにもなかったように、眠っている間その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんでどこを探してもないのである。
霊魂というものがあってフワフワ飛んでいるものではない。又大自然の中に溶けこんだとしても決して安息しているとは限らないのである。あたかも眠りが安息であるといい切れないのと同じである。眠っている間安息している人もあれば苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあるのと同じである。
この死後の大生命にとけこんだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば自然に会得するであろう。この死後の生命が、何かの縁にふれて我々の目にうつる生命活動となって現われてくる。ちようど目をさました時に、昨日の心の活動状態を今日も又その後を追って活動するように、新しい生命は過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。
かくのごとく寝ては起き起きては寝るがごとく、生きては死に死んでは生き、永遠の生命を保持している。その生と生の間の時間は、人各異っているのであるから、この世で夫婦親子というのも永遠の親子夫婦ではありえない。ただ清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、即ち日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の大御本尊を信ずるもののみが、永遠の親子であり同志であって、大功徳を享受しているのである。