二、三世の生命
 

法華経譬喩品に云く
  爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、
  我今天・人・沙門・婆羅門等の大衆の中に於て説く。我昔曾(かつ)て二万億の仏の所に於て、無上道の為の故に常に汝を教化す。汝亦長夜に我に随って受学しき。我方便を以て汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり。舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめき。汝今悉く忘れて、便(すなわ)ち自ら已に滅度を得たりと謂(おも)えり。我今還って汝をして本願所行の道を憶念せしめんと欲するが故に、諸(もろもろ)の声聞の為に是の大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名(なづ)くるを説く。舎利弗、汝未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干(そこばく)千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし。

 

化城喩品に云く
  是の十六の菩薩沙弥(しゃみ)は甚だこれ希有(けう)なり。諸恨通利にして智慧明了なり。已に曾(かつ)て無量千万億数の諸仏を供養し、諸仏の所(みもと)に於て常に梵行を修し、仏智を受持し衆生に開示してその中に入らしむ。汝等皆当に数々(しばしば)親近して之を供養すべし。所以は何ん若し声聞・辟支仏及び諸の菩薩、能く是の十六の菩薩の所説の経法を信じ受持して毀(そし)らざらん者、是の人は皆当に阿耨多羅三藐三菩提の如来の慧を得べし。仏諸の比丘に告げたまわく是の十六の菩薩は常に楽(ねが)って是の妙法蓮華経を説く。一一の菩薩の所化の六百万億の那由佗恒河沙等の衆生は世々に生るる所菩薩と倶(とも)にして云云。

 

如来寿量品に云く
  諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはくくじゅう)の者を見ては、是の人の為に我少(わか)くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我実に成仏してより已来、久遠なること斯(かく)の若(ごと)し。
自我偈に云く
 我仏を得てより来(このかた)経たる所の諸の劫数無量百千万億載阿僧祇なり
 
 右の経文は法華経のごく一部ではあるが、およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世及び来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。故に仏教から三世の生命観を抜きさり、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学は全くその根拠を失ってしまうと考えられるのである。
 しかして各経典には生命の遠近・広狭によって、その教典の高下浅深がうかがわれるのである。さらに日蓮大聖人にあっても三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ釈尊よりも大聖人は生命の存在をより深く、より本源的に考えられているのである。

 開目抄に云く(御書一八六頁)
  儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す(乃至)貴賎・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云、かくのごとく巧に立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なり、かるがゆへに玄という、但(ただ)現在計りしれるににたり。
 又云く(御書二三二頁)
  詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼(こつげん)の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるベし。

 

 撰時抄に云く(御書二六九頁
    今の人人いかに経のままに後世をねがうとも、あやまれる経経のままにねがはば得道もあるベからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候。


 かかる類文はあまりにも繁多であり、三世の生命なしに仏法はとうてい考えられないのである。これこそ生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。しかしながら多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を、科学的に考えないうかつさを笑いたいのである。
 およそ科学は因果を無視して成立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、必ず原因と結果が存在する。生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、単なる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。
 あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく消えてなくなると考えて平然としていることは、あまりにも自己の生命に対して無頓着な者といわねばならない。
 いかに自然科学が発達し、又平等を叫び、階級打破を叫んでも、現実の生命現象はとうていこれによって説明され、理解されうるものではない。我々の眼前には人間あり、猫あり犬あり、虎あり、杉の大木があるが、これらの生命は同じか、違うか、又その間の関連如何。同じ人間にも生れつきの馬鹿と利巧、美人と不美人、病身と健康体等の差があり、いくら努力しても貧乏である者もおれば、又貪欲や嫉妬に悩む者、悩まされる者などを科学や社会制度ではどうすることもできないであろう。かかる現実の差別には必ずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探求なしに、解決されるわけがないのである。
 ここにおいて三世の生命を説くからといって、我々は霊魂の存在を説いているのではない。人間は肉体と精神の他に、霊とか魂とかいうものがあって現世を支配し、さらに不滅に続くということを、承認しているのではないことを明らかにしておく。