総 論

   第一章 生 命 論
    
     第一節 生命の本質論
         〔註〕この節は戸田先生が大白蓮華第一号『昭和二十四年七月十日発行』に掲載されたものである。


  一、生命の不可思議


 わが国の神道が超国家主義、全体主義に利用されて、遂には無暴なる太平洋戦争にまで、発展して行った時に、私は恩師故牧ロ常三郎先生及び親愛なる同志と共に、当時の宗教政策の甚だ非なることを力説した。即ち日本国民に、神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的所以を説いたのであるが、そのために昭和十八年の夏弾圧されて、爾来(じらい)二カ年の拘置所生活を送ったのであった。
 冷い拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、終には人生の根本問題であり、しかも難解きわまる問題たる「生命の本質」に、つき当ったのである。「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久に続くのか」これこそ永遠の謎であり、しかも、古来の聖人賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。
 不潔な拘置所には虱(しらみ)が好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、虱はのこのこと遊びにはい出してきた。私は二匹の虱を板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。まず一匹を潰したが、他の一匹はそんなことに頓着なく動いている。潰された虱の生命は一体どこへ行ったのか。永久にこの世から消え失せたのであろうか。又桜の木がある。あの枝を折って花瓶に差しておいたら、やがてつぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。この桜の枝の生命と、元の桜の木の生命は別のものであるか、同じものであるのだろうか。生命とはますます不可解のものである。
 その昔、生れて間もない一人の娘が死んで、悩み苦しみぬいた事を思い出してみる。その時自分は娘に死なれてこんなに悩む、もし妻が死んだら(その妻も死んで自分を悲しませたが)……もし親が死んだら(その親も死んで私は非常に泣いたのであったが)……と思った時に身震いして、さらに自分自身が死に直面したらどうか……と考えたら目がくらくらするのであった。それ以来キリスト教の信仰に入ったり、又は阿弥陀経によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題にかんして心の奥底から納得するものは何一つ得られなかった。
 その悩みを又、独房の中でくり返したのである。元来が科学、数学の研究に興味を持っていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかった。そこで私はひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。そして法華経の不思儀な句に出合い、これを身をもって読み切りたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱えぬいていた。唱題の数が二百万遍になんなんとする時に、私は非常に不思議なことにつき当り、未だかつて、はかり知り得なかった境地が眼前に展開した。喜びに打ち震えつつ、一人独房の中に立って、三世十方の仏・菩薩、一切の衆生に向って、かく叫んだのである。遅るること五年にして惑わず先き立つこと五年にして天命を知りたり、と。
かかる体験から私は今、法華経の生命観に立って、生命の本質について述ベたいと思うのである。