戸田城聖全集質問会編 286 「摂受と折伏」・折伏の根本精神

 

昭和三十一年五月

「大白蓮華」六十号掲載

 

出 席 者

   会長 戸 田 城 聖

  理事長 小 泉  隆

   理事 白 木 薫 次

 青年部長 辻  武 寿

 参謀室長 池 田 大 作

大阪支部長 白 本 義一郎

(司会)

教学部長 小 平 芳 平

 

摂受と折伏

 

 小平 折伏の問題は入信するまえから聞かされて、しかも、最後まで私たちの切実な問題になるわけですが、摂受と折伏と、それから折伏の根本精神というようなことについてお願いしたいと思います。

  随自意御書というのがありますけれども、摂受は隨他意になるわけです。相手の意に合わせてやりますから……。折伏は随自意になるわけでしょう。自分の意志にしたがって、相手が賛成しようが反対しようが、かまわずに、どんどんやるわけだから。

「摂受・折伏時によるべし」(御書全集九五七㌻)という文で、その「時」を、相手によって時が変わるというように解釈する人がいるのです。

 戸田 その「時」が大事なんだ。それは正法、像法、末法という時なんだ。けっして、その時、その時というわけではない。(笑い)正法、像法、末法というように読めば、時の解釈がつきます。

  「末法に摂受・折伏あるべし」(御書全集二三五㌻)というのは、どういうふうに読むんですか。

 小平 ええ、開目抄の……。

 戸田 「末法に摂受・折伏あるべし」という文は、大聖人様が法体の広宣流布をなさっている、あれが摂受なのです。折伏のなかの摂受なのです。それでこんどの化儀の広宣流布には、折伏のなかの摂受なんかも、ないんだよ。

 それは、七百年の間には、徳川時代のような時があった。あの時代に貫主様のなさっていらっしゃる行躰(ぎょうたい)は摂受なんです。折伏のなかの摂受です。折伏という大きな舞台からみて、摂受の分という意味です。

 それはしかたがないのです。日寛上人様の時代には、今のような折伏をやる人もないし、やったらまた、首を斬られてしまう。そういう意味だと、わたしは思うのです。

  信長みたいな、無茶なやつがいると法論させないで、政略のために、おまえのほうが負けだなんて首斬られてはたまらないですから。

 池田 四悉(ししつ)(だん)で、第一義と対治悉(たいじしつ)(だん)を折伏とし、為人(いにん)と世界を摂受の部類に入れるというのは……。

 戸田 それは、それでよいんでしょう。四悉檀をかならず心にかまえてやらないとならないんだから。それを、為人や世界悉檀を摂受と決めるのは、おかしい考え方だけれども、やっぱり折伏という大きな世界からの摂受になるのではないですか。

  はじめから御本尊の話をだしたいんだけれども、商売の話を、まずと……。(笑い)

 戸田 そういう意味だけが摂受というのかね。摂受、摂受というけれども、摂受とはそんなものではないんだろう。摂受というのは、日寛上人様みたいなやり方が、折伏のなかの摂受ではないのか。一国の将軍だとか、殿様が帰依して、それで奥方かなんか帰依して三門もつくれば、お山をりっぱにし、それに日寛上人様が広宣流布のときのためにと残された二百両という金は大変です。小判です。小判一両は、金四匁ですから。そうすると、四匁といえば、いまは一匁二千五百円だから、一両は一万円です。二百万円というけれども、いまの米に換算すればそんなものではないだろう。それを総本山に残して、そして大石寺の興隆をはかられた。

 それにまた日寛上人は、上野村ではたいへんな人気なのです。ああいうのを摂受というのです。折伏をりっぱにしていらっしゃって、それで、この摂受なのです。そうではないですか。日寛上人様は、摂受のいちばんよい手本です。

 池田 折伏のなかの摂受……。

 戸田 そうです。それで「六巻抄」をおつくりになって、弟子たちに、ちゃんと指針を与えて、そしていっさいの使命を果たされ、ご臨終にはソバ食って死なれたんだから、(笑い)あんなのを摂受っていうのだろう。折伏の世界の……。

  そうしますと、現代のわれわれの場合などは、世界悉檀でも為人悉檀でも。りっぱな折伏なんですね。

 戸田 そうです。四悉檀はぜんぶつかいこなしていいということです。

  第一義ばっかりやっているんでは、青年部だ。

 小泉 青年部だって第一義、対治恚檀だけでは折伏はできないものねえ。

 池田 できません。

 小泉 ……「御本尊!」といって、あとはなにもいわないのでは。(笑い)

 戸田 「その御本尊の体は何ものぞや」「妙法なり……」(爆笑)第一義悉檀でいいのです。

 小平 同じ摂受でも、正法・像法時代の摂受と混同すると、おかしくなる。

 戸田 そうそう、そうなのです。

 白木(義) そうしますと、観心本尊抄の「折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責(かいしゃく)し摂受を行ずる時は僧と成って……」(御書全集二五四㌻)

 戸田 学会の活動が、その原理に向かって進んでいるんだけども……。

 暴力宗教と書かれているが、あれは困る。このまえ、立正交成会を暴力というのがでてきたけども。学会なんか、なんら暴力でないのに、暴力、暴力といわれるんだ。折伏の力それ自体がずいぶん強いのです。

 池田 われわれにはあたりまえであるけれども、あたりまえでない世界からみると、そうかもしれません。

 戸田 罰論なんか、いちばんこわいのです。

 小泉 あれは、おどかしだと思ってる……。

 戸田 しかし、ほんとうに当たるから、しようがない。(笑い)

   牧口先生は「折伏すると罰と信用が残る」と、よくいっていました。

 小平 上役なんかは、折伏しなさい。罰と信用が残ると……。

 

謗法払いと先祖の墓

 小泉 謗法払いを、神棚や仏壇を焼くというように勘違いしているのがある。

 池田 ああ、それは、新聞だ。

 小泉 ええ、このまえも話がでたんです。「君のほうだろう、仏壇も神棚も、みんな焼いたのは」なんて。「そんなぜいたくなことをするもんですか。そんな不経済なことはしない」といっておいたけれども。

 小平 学会員でもどうか。すると仏壇を焼かなくてよいですか、なんて、とんでもないことをいいだしたものがあった。もちろん、そんな不経済なことをするな、といってくればよい……。

  そういうふうな質問は、たまに、地方にいっているとぶつかります。

 戸田 こういうふうな、大きな、対策をたてようと思うのですが。これこそ摂受だ。これは謗法にならないと思うんですが。その一つは邪宗の寺に、墓をもっているでしょう、そうすると、みんな墓へ金をもっていってはいけないように思っているでしょう。邪宗の坊主のところに。あれは、やっていいと思うけれども、どうだろうか。これは謗法になるかなあ……。わたしは、瑞正寺(ずいしょうじ)という寺から土地を借りているのです。そして地代を払っているのです。そうすると、借りている墓の地代を払ったっていいではないか。だから、邪宗だからなんでもかでも金をやらないといったら、これは喧嘩腰です。家をどっかへもっていかなくてはいけないが、そんなかんたんに家をもっていくわけにはいかない。いまみたいに金のかかるときに、墓所の石なんかもっていかれません。両方とも同じことではないか。

 小泉 墓の場合は地代といわないで、管理料というのです。霊園というのが東京に七つばかりあるのです。

 戸田 そこでは、やっぱり金をとってるわけです。

 小泉 管理料、まえには掃除料といった……。それは今度は管理料とかえたんです。同じことなのですが。

戸田 それをいくらとっているんだ。

小泉 いま、それを調べているが……。

池田 何年たったら無縁になるんですか。

小泉 それは、調査をしてから丸三年たってから。

戸田 すると。自分の親の墓を、……かりにいま、君のいう法律が正しいとすれば。三年間というものは、掃除料も管理料も払わずにおいて、無縁にされるおそれはない。だから……。

 小泉 そうではないのです。やらなくってもよいのです。無縁にはできない。

 戸田 なかなかやかましいぞ、これは。

 小泉 いるということがわかれば。完全に行方不明で、どこにも縁者がいないということがわかってから三年です、あれは。いればだめです。金がなくて出せない人がいるのだから。滞納みたいなものですから。家賃もなかなかなのに、できないといえば、しようがない。(笑い)

 戸田 そういうようになれば、指導法が、そう、お山にばかり墓つくるわけにはいかないんだから、邪宗の寺も借りなければいけないんだから。だから、管理料は払えといっても、謗法ではないとわたしは思うんだが、折伏をするときに。

  そうなれば、ずいぶん気が楽になって……。(笑い)

 小泉 別な考えで、やっぱりお寺さんにやるなんて、邪宗に供養をするような考えでやるとたいへんです。

 池田 そうですね。

 戸田 それで、その精神が問題です。精神の問題だ。あくまで管理料を払うので、供養をするのではないのです。ここで、永代借地権(正式には永代使用権)があるのだから管理料を払えと、借りた土地の代金は払えと。そうしたほうがよいと思う。まさか、いますぐ正宗で墓を全国につくるわけにはいかない。寺だけで大変なのに、墓までつくったらこれまた大変だ。

 小泉 今、佐野に一つの問題が起こっているのです。あれは、金を払う問題ではなくて、骨を埋めさせない。宗旨替えするんなら、掘り返してもっていけという。脅かされて、掘り返してもってきた。

 戸田 どうして、また……。

 小泉 新しい骨を埋めた。そしたら総代から村の顔役から村の坊主といっしょになって、それで掘り返せと脅かされて、それで掘り返して……。

 戸田 警察に、それをいえばよいのに……。

 小泉 それは今、警察のほうでやっているのです。警察のほうで入って、しばらくのあいだ、待ってほしいといっている。いま研究中なのです。

 戸田 研究はよかったね。(笑い)

 小泉 だから、ゆっくり研究させろといっただけです。今度だけ、いまのところ一つだけですから、しばらくのあいだ研究させる。

 池田 本人が承知しないと、掘ってはいけないのです。

 小泉 脅かされて本人が掘ってしまった。他人が掘ったら、それこそ大変です、これは。

 戸田 だから、管理料は払えということにしたらよいだろう。すると、ここに別の意味がでてくるのです。正宗の信者が墓をたくさんもてば、邪宗の寺に金が入る。そして正宗がふえればふえるほど、寺がじゃましないのです。これを摂受という。(笑い)

 小泉 早く学会員になってくれ、か。(笑い)おれの檀家は正宗の信心をしてくれとなってくる。(笑い)

 戸田 そして、墓をきれいに掃除に行って、それで、お寺へお金を入れるのです。それは謗法にならないと思う。

 小泉 ならないでしょうね。

 戸田 そういう考え方が、摂受ではないかい。日寛上人に聞いたら、よろしいと、こう、おっし々るにちがいないと思うけれども。

 

折伏と慈悲

小平 それでは、次に折伏につきまして。よほどいなかの、あまり信者がいないところでも、折伏をなぜするかとか、どうとかいう質問がでます。そのときこちらから「折伏の根本精神はどこにあるか」と反問しますと、たいてい「慈悲です」といいます。かなり、これは徹底している。学会全体に徹底していると感じますけれども、そういう点について。

 小泉 慈悲なんて、そんなに口でいうほどあるかな。口先ではいってますけれど、はたして慈悲でやっているか、どうかね。

 戸田 そこが問題なのです。

 小泉 御本尊送りまで、慈悲があるんだけれども、その後、慈悲がなくなって。面倒をみなくなってしまうなんて……。(笑い)どうもおかしいですね。

 戸田 これが問題なのです。布施ということに、法施すなわちいまの折伏と、財施というものがある。その場合に、折伏するよりも金をやったほうが楽なんだ。すなわち法施よりも財施のほうがやりやすい。そうでしょう。一万円あげます、五千円あげます、と。ところが、それは財施といいまして、これは釈迦がいつも説教している。「財施というものは限りがある」と。金をやると、それは、ちょっとのあいだはよいですけれども、そう、いつまでもやれません。「法の布施には限りがない」これは涅槃経の原理だ。ところが、最初のうちは、釈迦も「財を布施しろ、金をやれ、物をやれ、みんな喜ぶぞ」と、そこまでやってきたものの、最後になると、金なんかやると、すぐなくなってしまうだろう。だから「財施はいかん」「法施でなければいけない。法の布施には限りがない」と説法するようになった。

 これは、いくらやってもだれも困りはしない。宝物をやるんだから。そういう意味です、折伏は。法施でしょう、財施ではない。といっても、財施をしてはいかんとはいっていないんです。止めてはいないのです。ここが面倒なところです。財施はいかんといってはいない。財施をしてもらわんと、ちょっと困る場合もある。だが、仏法の根本義は法施だというのが折伏なんだ。だって法には限りがない。財には限りがある。限りがあるものをやろうという心情が意気地がない。折伏の精神で自分は喜んでやっているつもりでも意気地がない。法施においては、勇気りんりんだ、限りがないんだから。それが折伏ではないですか。

だから、物をやるんだから、法の施をやるんだから、やさしく、素直にやればよい。しかし先方ではもらいたくないのです。たとえば百円札しかみてない人に、千円札をやろうというときはどうだろう。百円というのはえらいと思っている子供に、千円札をやるときは、ずいぶんなだめすかして、やらなければいけないだろう。(笑い)どうだろう。……それ以上の御本尊様を渡すのだから。もうことこまかにいって、怒ったり、文句いったりしないで、やさしくいってきかせて、そんなものではないですか、御本尊様の法施も。わたしは、そう思う。

 白木(薫) そうです。百円札一枚よりも、十円玉二つのほうが、子供は喜んでもらう。みんなそうですから。まして御本尊様は千円札の何十万倍。何百万倍という功徳あるものですから、折伏が大変なわけだ。

 小泉 結局、御本尊様の値うちの説明がたりないから、こっそり、もう返していったり……。使い方を知らんのだもの。値うちがわからないのだ。

 戸田 あれが十万円束の宝物だと思ったら、だんぜん返さない。

 小泉 返せといっても返さない。半分でもいいから、残しておいてくれと頼む。(笑い)

 戸田 法施ということを知らないのです。邪宗教とわが日蓮正宗との相違は、財施と法施との相違もあるのです。

 資本主義的にみているのです、邪宗は。みんな、そうですよ。お金を出さなければ、さい銭を出さなければ、もうからないと。立正交成会など、みんなそうです。お金をあげないのに、もうかるわけはない、とこういうのです。だから、あげなさいという。あげたってもうからない。それがぜんぶです。それが財施、それが邪宗の布施行の精神です。ぜんぶがそうです。

 よくみてごらんなさい。学会だけです、あげようと、あげまいと、そんなことはかまわん、こっちから法の施をせよ、それが折伏なのです。そして、ご利益がでたら、法華経のために供養をしなさい、と。そこが邪宗と正宗とのわれわれの行動との相違だろう。どうです。財施というものを根本におかずして法施を根本にして、そして、それが折伏という名前になっているのです。御本尊を与えるんだもの。千円札をやるんだ、千円札を、十円玉だけしか知らない人に千円札をやるのです。それが折伏ではないか。

 それが日本の知識人にわからない。わからしてやろうとしている。そういう精神がなければ絶対にわかりません。だから折伏なんか無理にする必要がないのです。ところが自分が法施の位置にたてば、やらざるをえなくなってくる。その差なのです。それを持たせれば喜ぶだろうと思って、やるだろう。もらったほうが大変だと思う。この千円をどう使ってよいかと思う。それは折伏の原理です、もう、法施では、財施ではないんだから。

  それを、みんな間違っているのです。

 戸田 日女御前御返事の御書を読むと「鴛目五貫・白米一駄・菓子其の数送り給び候い畢んぬ」(御書全集一二四三㌻)と。大聖人様も、ずいぶんまあ、あっさりと御返事を書かれたものですね。銭五貫文なら大変なものです。どれくらいあるかな。たとえば百姓家の女中が手伝いにきます。それで、大聖人のところに銭五貫文をもってくるのです。すると女中がどのくらい驚くか。大変だ。村中評判になってしまう。五貫文なら大変なものです。二文銭をもっていたらなんでも買えるのですから。(一貫は一千文)それほど金の価値の高いときに、しかも身延であそこに五貫文の金があったら、大聖人様はどれくらいのお金持ちであったろうか。

 小泉 山の中で使いきれないでしょう。……。(笑い)

 戸田 村の人は、こういうだろう。大聖人のところには、銭五貫文ある。銭五貫文あると、評判が高いです。それで波木井が貧乏なのです。大聖人滅後、借金して釈迦像をつくろうとして、御開山(日興上人)にやめろといわれたんだから。ともかく金がないんだ。そういう時代なんだ。

 経済学をやると、わかる。大聖人がどれほどお金があったかがわかる。大聖人はお金なんか欲しくないんだから。供養をうけてやっておられるのです。そこがまた問題なのです。だから豊かなんだ。こい、折伏してやると。そういうわけです。

 

折伏の功徳と根本精神

 池田 どういう気持ちで御本尊様をもたしても、功徳は変わらないのでしょうか。

たとえば慈悲のない折伏は功徳が少ないというような……。

 戸田 変わらないのです。

 妙楽大師のことばに「仮使(たとい)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し」と。だから、いいのです。折伏さえしていればいい。そうすればかならずご利益がでてくる。自分は、あいつを信心させれば金があって、あいつからとれるなあなんて思っても、いいのです。本人のほうが、こんどは真剣になれば、よいのです。それは、無量義経にその精神がある。自分のほうは信心がだめだ。しかし、それを教えれば教えられた本人はよくなるという原理が、無量義経の十功徳品にあるのだから。

 折伏を、すなおに、どんどんしなさい。それから、人を憎んではならない、けんか口論はいけない。まじめに、やさしく教えればよい、その教える精神ができれば。それで反対すれば本人がだめになる。やさしく教えるという気持ち、恋愛みたいなものなのです。(笑い)

 池田 折伏をするということが、即自分自身を折伏しているんだということに通ずるでしょうか。

 戸田 それでは、教えよう。最後の一問を教えます。自分自身が南無妙法蓮華経で生きているということです。それ以外に折伏はないのです。覚えましたか。手練手管も方法もなにもありません。ただただ、おれは南無妙法蓮華経以外になにもない! と決めることを、末法の折伏というのです。それ以外にないでしょう。どういうふうにやったら南無妙法蓮華経が弘まるか、どのようにやったら南無妙法蓮華経がよくなるか、人によく教えられるか、そんな方法論は関係ありません。

 われ、みずからが南無妙法蓮華経だ! 南無妙法蓮華経以外になにもない! と決めきって、決めきるのです。おれはそれ以外にない、悪ければ、殺しても死んでもなんでもしようがないと、自分は南無妙法蓮華経だと決めるのが、最後の折伏です。

 池田 はあ、それは簡単です。……(笑い)

 戸田 そう、簡単なのです。どうにでもいおうと思えば無限にいえるけれども、しかし、真義はそれしかない。私は南無妙法蓮華経に生き、富士大石寺の仏法を信じ、それから御本尊様を拝む。それで損させた者はおおいに悪い、梵天・帝釈たりとも許さない。その覚悟でやればいいのです。

 わたしが大阪に行ってきたときのことですが、それはすごく身体が痛む、第六天の魔王を呼びだしたんだ。おれはだるい、貴様はいったい、なにをボヤボヤしている、おれの身体をだるく(・・・)している。おれをだるくさせるようなことをするやつを、どっかへ、つんだしてしまえ、と。(笑い)梵天・帝釈殿と、殿の字をつけてやった。おまえもどこか、おかしい、おれが大阪から帰ってきてだるいというのに、しっかりしろ、と。そしたら、スーッとした。諸天もかせぐのです。(笑い)

 折伏というのは、そういうわけです。折伏なんて、なにも最後に問題がない。われみずから南無妙法蓮華経なりと、決めきって後、本尊流布をすることです。

心に折伏の大精神があるのです。ほかになにもないではないか。ありますか。

小泉 ありません。

戸田 そこを聞けばなんでもないのに。いいか、二度いったんだからね。

 

折伏と生活の両立

 小平 次に世法との関係について、商売と折伏との関係、勤めと折伏などはどうでしょうか。

 白木(義) よく先生が「中道法相だ、片寄ってはいけない」とおっしゃるんですけれども、新しく入信してきた人は、やっぱり、こっちのいい方が足りないのか知らないけれども、片一方に走ってしまって、それから、飯がくえなくなったのが、たまにあります。

  勤めの目的をはっきりさせればよいのです。信仰してない人が腕がよくて、信仰しているのは腕がにぶいと。自分が一人やとうんだけれども、信仰しているから、こっちをやとうほうがいいでしょうか、なんていうのも、質問をときどきうけるのです。商売はなんのためにやるんだ、もうけるためにやるんだったら、腕の立ったのをやとえばよいではないか。腕の悪い人ではしようがない。信仰に関係ないといったんだが。

 戸田 信仰に関係はない。世法というのも、これは面倒なのです。そこで世法ばっかり立ててやると、こんどは信仰のよいものがでてこないです。信心が透徹すれば、世法はなんでもなくなる。根本は信心です。もう、仏法に透徹すれば、世法のことは簡単なものです。仏法に透徹する以外に、世法の細かい技術なんていうものはないと信ずる。あっても、そんなことはどうでもよいことではないですか、信じてしまえば。わたしは世法では負けません。世法でぼくを攻撃してくる。これではぼくは負けない。断じて負けない。もうこのへんでよいだろう。

 一同 どうもありがとうございました。

〔注〕 無縁墓地について - 墓地埋葬法施行規則によれば、寺院側が無縁墓地として処分する場合は、墓地使用権の消滅が公に確認されているという要件のほか、墓地使用者および死亡者の本籍地および住所地に縁故者の有無を照会し、さらに縁故者の申し立てを催告する公告を二種以上の日刊新聞に三回以上出し、公告から二か月以内にその申し出がないことを証明する書面を提出しなければならないことになっている。すなわち、その墓地の使用者や死者の縁故者がわかっているかぎり、無縁墓地として処理することはできない。