戸田城聖全集質問会編 285 生命の不思議をめぐって

 

昭和三十一年三月 「大白蓮華」五十八号掲載

 

出 席 者

        会長 戸 田 城 聖

      指導部長 柏 原 ヤ ス

        理事 石 田 次 男

      統監部長 原 島 宏 治

      秘書部長 和 泉 ミ ヨ

    教学部副部長 山 浦 千鶴子

     中野支部長 神 尾 武 雄

   青年部主任参謀 北 條  浩

     青年部参謀 石 田 栄 子

   男子第十部隊長 安 保 康 宏

   女子第三部隊長 石 田 明 子

   女子第六部隊長 山 崎 太桂子

  男子第七部隊参謀 渡 部 一 郎

男子第七部隊教学主任 篠 原  誠

      (司会)

      教学部長 小 平 芳 平

 

はじめに

 

「折伏教典」を開くと、まずだれでも最初の生命論に度胆をぬかれるにちがいない。これほどすごい論文に接していなかったせいもあろう。しかし、そのわりに十分に納得して理解する人も少ない。けだし大聖人の仏法哲学のなかでも、もっとも難解な奥底なるゆえんであろう。また最近、オパーリンの“生命の起源”説等が問題となっているが、これを仏法哲学では、どう解明しているだろうか。

 幸福生活を営む指導原理たる唯一の宗教の側より、生命の発生、十界論、成仏論等について、会長戸田先生をかこんでいろいろ質問することにした。なかでも、われわれがもっとも知りたい成仏の境界とは、どんなことであろうか。

 

地球上に人間はどうしてできたか

小平 それでは座談会を始めます。

 今回からは従来の研究座談会とは少し方法を変えまして、戸田先生にいろいろとご質問して、お話をうけたまわるように企画しました。本日は、その第一回として「生命論」を取り上げることにします。生命の起源などについて、最近、とくにいろいろの学説が発表されておりますが、そのへんからまず取り上げてみたいと思いますが。

 石田(次) オパーリン学説あたりから。

 渡部 オパーリンのものは、「生命の起源」という膨大な著書がございますが、生命の起源について、彼は「観念論」と「唯物論」に分けまして、観念論というのは生命を霊的な非物質的のものだとみる。そして、物質というのは生物を構成する材料になるものであって、それに、魂とか、あるいは生気が吹きこまれると、はじめて「生命」になる。これがいわゆる観念論の立場であって、いわゆる宗教的立場はぜんぶこれと同様であるから間違いであるといっているのです。

 彼のとる立場は唯物論ですが、生命というのは、本質的に物質的なものであって、物質の特殊な存在形態である。法則にしたがって発生し、法則にしたがって消滅するものであって、なにか超物質的な“霊的根源の存在”なんていうものはないという。

 その実際の証拠としては、宇宙のなかにある星を観測しますと、いろいろな状況が現れてくる。はじめガス状の集塊が冷却して温度がだんだん低温となってくると、生命体の物質を構成する基本的要素としての炭素が凝縮して、地球の中核体にはいりこんできた。そして炭素が水素と結び、また炭素が他の金属と結び、窒素と結び、炭素同士が手を結びというように、だんだんいろいろ結合してくるわけです。

 すなわち、初めは炭素と重金属元素と化合してカーバイドをつくり、カーバイドは水蒸気と反応して炭化水素というかたちで出現する。さらに温度が下がってまいりますと水と化合し、それによって炭水化物その他のものに発展していくわけです。それは、隕石その他を分析してみることによってもわかるし、また他の天体を観測することによって、その温度と反応のようすとを調べることによってもわかる。結局は、こういうふうにして炭水化物、炭素と水素の化合物というのが、一番最初にできるんだろうというのです。

 その次に、窒素化合物というのになりまして、それと水とが化合してアンモニアその他が発生する。この炭素と水素に、窒素とか酸素とかいうものがつながってきて、現在の有機物のごく基本的なもの、アルデヒドとか、ケトンだとか、アルコールだとかいうものが、できてきたのであろうという。

 それから、「生命体」というものは、いずれも蛋白質というものを含んでいる。蛋白質はどういうようにしてできたんだろうか。それは、そういう有機物体がしだいにたくさん、まとまってきて、できたんではないだろうか。という。それの説明として、アミノ酸がそういうものから簡単に合成できるわけです。また、ホルマリンあたりから蛋白がただちに合成できます。これは、温度が百度か二百度くらいの低温でそういう反応が起こるわけですから、これで蛋白のひじょうに小さいものができてくるだろうという。

 次に、蛋白質がどうなるか、ということを問題としているわけです。その点では、コアセルヴェートといって、そういうような高分子化合物が、ちょうどアメーバのように、他から物質をとり入れ、また物質を放り出すというような行動を行いますが、そのようなものが発生してきて、それがだんだんと不適当なものは追い払われ、適当なものは残って、現在のような、まあアメーバというのはひじょうに高級なものですが、それよりもっと低次の生命体ができあがるのではないかと。そうしてその結果として現在にいたる生命……生物というものが、進化の結果、だんだん出てくるわけです。そのようにオパーリンはいっているのです。

 小平 こちらの朝日新聞にでているのは、もっとやさしいですよ。

 これは、はじめ地球が太陽系の中へできたわけです。はじめ熱の球だったものが、だんだん冷めてくるにしたがって、空気ができ水ができ、そうしているうちに、海水の中に蛋白質ができてきたのです。その蛋白質が海水の中で、同じようなものがくっついたり離れたり、ゴロゴロしてるうちに、アメーバというような、生物に似たようなものが、合成されてできてきたと書いてあります。それが、いろいろなふうに、くっつきようによって、植物になっていくものや、動物になっていくものがある。動物の系統は片方がチョウチョウ、片方がカニで、もう一つはイカができたのです。(笑い)それから魚になったのは今のマスみたいなものになるんですね。同じく魚から一方はカエル、一方はトカゲみたいになって、そのトカゲが今度はリスのようになって、そのリスのようなものから一方は人間になり、一方はサルになる。一方はクジラになった。(笑い)サルから人間になったんではないんです。ここでもくわしく説明していますがね、サルがだんだん人間に変わってきたのではないんだと。だから今、動物園のサルを何万年飼ってみたところで人間にはならないわけです。(笑い)

 戸田 その、人間とサルに分かれた前のものがあるわけなんだな。それは何たんだ?

 小平 ええ、それはリスですね、これ。(爆笑)

 神尾 分類からすれば、脊椎動物の哺乳類の、たしか(ごう)()類というわけですかね。

 石田(栄) どうしてまた、リスが突然、人間になったのでしょうねえ。

 柏原 人間の先祖であるというリスみたいなもののなかに、とっても人間味をおびたリスがいて……。(爆笑)

 戸田 まあ、そのリスの親分が、地球上の状勢が人間を生むような状勢を感ずるわけだ。そのようにして人間が生まれてきたととるわけだ。

 柏原 完全に人間が生まれてしまうのですか。

 戸田 そう、そうなんだ。

 柏原 人間から生まれたサルみたいな子の話の、逆みたいなもんですね。当時、その仲間からみると、ちょっと変ちくりんなものが出たなと思ったでしょうね。(爆笑)それがどんどん()えていったわけでしょうね。

 戸田 そうですね、あまり完全な人間ではなかったかもしれないけれど。しかし、これは推定だから、こうだと決めるわけにはいかない。十界互具の立場からみても、こういうふうな考え方になるのです。

 渡部 リスとかトカゲとか絵に書いてありますが、それは漫画でして、実際にはそういうものとは違い、リスとかトカゲは、一つの系列のなかの最終的な発展物とみたほうがよろしいのではないかと思います。もっと別な、もっとひどい格好した、生存に不適当なものであったのではないのでしょうか。

 

時代にともなう生物の変化

 小平 ここの説明ではこうですね。あるときには爬虫類ですね、爬虫類の大きなあの恐竜です。恐竜なんかが地球の上をばっこしていた時代があったわけですが、その恐竜がどういうわけですか、とにかく滅びて、哺乳類のほうが勝ったと。こんど哺乳類がずーっと地球の上を占領している。そのうちに人間がでてきた、その人間が今、君臨していると。そういっているのです。

 戸田 どうして人間ができたかっていうことはわからないんでしょう。どうしてそのリスみたいなご先祖様から人間になったかということは……。恐竜時代には人間はいたのか、いないのか。

 神尾 出ておったらしいですよ。ある説ではですね、ほんとうの学説かどうか、知りませんけれど、われわれがヘビをいまだに恐れるというのが、恐竜時代に原始人が恐れた習性が残っているのではないかという。恐竜が滅びたのがですね、食糧難だそうです。大きいから多量に摂取しなければならないから。これは私も感じますけれども……。(爆笑)それで大きいのが滅びて、小さいのが残ったというのです。

 渡部 一説では、温度がひじょうに下がったためだともいわれますね。

 石田(次) 余分な話になりますけれども、生物というのは、二、三種類できて()えてくるとですね、闘争が始まるのです。どれかが勝つんですね。勝ったのが、だんだん形が大きくなっていくんです。大きくなってきますと、今度は逆に小さいのにやられてしまうのです。選手交替になるわけです。動物界の一つの現象だという説なのです。

 小平 やはり、その、恐竜が滅びたというのは、先生がいつもいわれる恐竜が栄えられないような気候とかね、食糧難とかがあったかもしれませんね。

 戸田 そうですね。わたしはそう思うな。温度が下がったとか、上がったとか、なんとかいうことではないかねえ。……あれは何を食べてたんだろう。恐竜なんかは。

 渡部 肉食をしたものと、草食をしたものとあったようですね。

 戸田 草食なら木や草がうんとあるのだから、死ななくてもよさそうなもんだが。

 渡部 その当時はシダを大量に食べてたようです。シダ類が、あの当時、ひじょうに繁茂していましたから……。ところが、ちきっと、あの時に氷河期になって、シダ類という類が暖かい所へ退避してしまったのです。それで食糧難になったというのです。

 戸田 だけど、ぜんぜんなくなったわけではないのだから、シダのある所で生きていたってよさそうなものだがね。そうだろ……。

 渡部 地球の年齢からいうと、ひじょうに急速な間に氷河期が訪れて、食糧がなくなったのだそうです。私たちの考える、千年とか二千年とかいう短い時代ではないというのですが。

 戸田 はあ、その間に人間はどうしていたんだ、もしだね、いたとすれば。

 小平 いなかったでしょう、人間は。

 渡部 人間の一番古いのがいたという。それは大づかみなところ、まあ二十万年ないし五十万年前だということになるんです。そうしますと、そろそろその終わり頃には、人間が人間らしく猿みたいなもんでしょうけれども、でてきたのではないかというのです。

 篠原 進化論の場合ですね、はじめの進化論でいうのは、わりあいだんだん変わってくるというのですが、むしろ、あまり変わらないっていうほうが有力な説だったようです。変わるとしてもひじょうにゆっくりと変わるというのです。ところがちょっと後になると、「突然変異」という事実が見つけられるわけです。なんかの具合で、なんかの刺激があると、突然変わるというのです。そのときに生存不適当なものができた場合には、それがだめになってしまうけれど、たまたま合ったものはひじょうにうまく発展するのです。そういったことがひじょうにあったのではないかと思うのです。今のトカゲは恐竜の子孫だとか、シダやワラビやなんかは、昔のシダが小さくなったものだといわれておりますけれども、だんだん小さくなってきたというよりは、あるていど、突然変異があったのではないかと思います。

 戸田 それは考えられるね。

 小平 その、人間の体格がですね、時代によって変わっていくわけでしょう。そんなようにして、グッと小さくなったのではないでしょうか。まさか恐竜からトカゲは生まれないでしょう。

 篠原 何段階か経て、小さくなってきたということが考えられるのです。

 渡部 小さい変化も大きい変化もあったのではないですかね。そのうち、小さいほうが生き延びたのではないでしょうか。

 小平 今の人間だって、アメリカ人と日本人の体格とでは、だいぶ違いますね。あれはどういうわけかね。

 篠原 ですから、そういう場合に環境なんかで変わっていくとしたら、あんまり変化が大きすぎると思うのです。

 戸田 環境ということではないのではないかね、どうだろう。私が、よく、質問されて困るのは、風土が民族をつくるっていうことは、ぼくの主張なんだよ。では、目の青いのと黒いのとでは、どういうような変化の原因があるかといわれると、これには困るね。(笑い)

 神尾 私は、風土だと思うのですがね。

 

環境などによる体質の変化

 戸田 そうかね。かりに日本人が、アメリカへ行って、何代も何代もたつと目が青くなるのだろうか。

 神尾 私はそう思うのです。アメリカあたりから日本へ西洋人が来ます。長いあいだ住み馴れてきますと、キツネうどんなんか食べるような西洋人になっていますと、囗の構造から発音まで違ってくるのではないかと考えています。紫外線の関係とか、そういった関係でなるのではないでしょうか。どうも西洋人が日本に長くいると変わってきます。食物の関係なんかもおおいにあると思うのです。アメリカの中部あたりへいくと空気が乾燥している。日本人が同じくイエスと発音するにも、そっちへ行っているとだんだん鼻にかかった声になってくる。乾いてくるので、しぜんそういう声になるのだと思うのです。日本にいては、いくら上手にまねしたって、練習したってぜんぜん、もう、発音が違うわけですから。

 戸田 ほう……。

 石田(次) そういう変化は物質変化というわけですから。物質変化というと、いわゆる衣食住の生活環境と、あと混血の問題ですね。そんな関係で変わってくるのではないでしょうか。

 戸田 説明すれば、そうなるのではないかね。

 石田(次) 青い黒いといいますと、純然たる、いわゆるオパーリンの生命論になってしまう、物質変化ですから。そういうような物質構造にならざるをえないような環境に、昔からなっていた一族が、だんだん特徴を濃厚に現してきて、青いなら青いという特徴が定まってしまったという考えになるのですが……。東北人なんかの体格をみますと、肩幅が広いのです。背は大きくない、横にがっちりとしているのです。そういうのは、ああいう国土に住んで、農業なら農業をやるという。生活環境がおおいに左右しているのではないでしょうか。

 戸田 そうかもしれないね。いままで論じられたのは、仏法でいえば「衆生世間」というのかな。いまの石田君や神尾君たちの話は「五陰世間」を論じている。オパーリンの学説なんか否定する必要はないと、わたしは思うのです。どこかに誤解があるかどうか、それはわかりませんが。このようにして発達してきたものではないかと思います。

 石田(次) 観察としては、そうでたらめな間違いはないと思いますね。

 戸田 そう、わたしは、これがほんとうではないかと思う、大きなつかみどころとしては。

 石田(次) 説明によりますと、生命の発生とは、水の中でできたというのです。水といえばだいたい海水になるわけですが。

 渡部 その朝日新聞は、少しオパーリンの説とは違います。太陽から地球が分かれてきて、それから冷えたとこっちではいっていますが、オパーリンのとってるほうは、塵みたいな宇宙塵というものがいちめんに散らばっていて、それがだんだん集まって重力の結果収縮してくる。一番なかが猛烈な高圧になった結果、熱を発してきたといっております。

 戸田 生命の発生が海の中でできあがろうと、どんなかたちかで生命は出たので、説明としては、オパーリンの説でもよいと思う。しかし進化論的一方で解決はできない。それは、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)の説明になるわけです。物質が色・受で、それがだんだん進化して、色・受・想・行・識というかたちになり。物質が完全体になってくるわけだ。それがはじめて衆生として、われわれの見えるものになってくるわけです。

 

進化論と久遠常住の関係

 渡部 それから、あの進化論では、こういうふうな進化が一応、行われて、人間の発生した時が、十万年とか、五十万年とか決まりますと、仏法でいう仏という方がひじょうに長時間、昔からいらっしゃるという事実が、あるいは釈迦が五百塵点劫以来、娑婆世界に二十何回出現したというようなことは、いったい、どういうふうに解釈するものなんでしょうか。

 戸田 その考え方は、地球だけに限らないのだと思う。他の星でもやはり、今のような場合があったときには、人間がおったと考えられる。それで、地球に生まれた人間がかならずしも、他の星に生まれないとは限らないと思うのです。いまここでぼくが死ぬと、かならずしも地球の上に生まれてくるとは限らない、他の星の人間のなかに生まれるかもしれない。金星が今、シダ類が繁茂している時代だというではないか。そういうところへ生まれるかもしれない。あるいは太陽系以外の星でも、地球と同じような温度で、恒星から屆く光も同じようなところがあれば、生まれるかもしれません。歩いて行くのではないのだから。(笑い)

 渡部 娑婆世界というのは、どのくらいの範囲でしょうか。

 戸田 地球において、衆生が勘忍していなければならない状態のことを娑婆世界というのです。かならずしも、こういうような格好の人間とは限らないけれども、人間界を十分感じていける世界があれば、大宇宙のどこであろうと、そこへ、ちゃんと生まれます。だから五百塵点劫といってもなんといっても、宇宙自身、久遠元初といったら宇宙それ自体なのだから、先もなければ後もない。

 篠原 時間をいうのではないでしょうか。

 戸田 時間をいうのです。時間と空間とが一つになっているのだ。星や地球やなんかぜんぶとってしまったら、宇宙というものは時間になってしまう。空間的な広がりがなくなって一点になってしまう。

 篠原 そういたしますと、久遠元初に下種仏法があったということは、どういうことでしょうか。

 戸田 宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです。南無妙法蓮華経は下種仏法でしょう。また南無妙法蓮華経を行ずる人間の宝号を南無妙法蓮華経という。大宇宙それ自体が時間だ。空間があるっていえばあるし、ないっていえばない。

 だから久遠の下種仏法を。どこの星で、どうしたなどということは規定できないが、ただ釈尊や聖人は、それを感じておられたのでしょう。無始の生命を……。どこで生命が発動して、どこで修行し、どこで衆生を化導して、ああいう仏の境涯になられたか、それはおわかりになっていたのではないでしょうか。かならずしも、この地球の上とは限定されない。もし限定してしまったら、仏法はみなうそになってしまう。五百塵点劫から仏になっていたといったって、地球のないところでどうして仏になったのか、ということになる。

 安保 大聖人様が「五百塵点劫の当初……我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(御書全集五六八㌻)とおおせられている御文がありますが。

 戸田 そう、そのことなのです。人間になってこの世に生まれた時が、もうすでに久遠元初だ。また、人間がそのリスの親方から出てきたとすれば、それが仏なのです。

 篠原 そういたしますと、久遠元初の自受用報身如来の再誕と、大聖人様のことを申し上げますが、再誕ということは、前に一度出てこられて、またふたたび出てこられたということ、久遠のそのままの姿で出てこられたと考えていいのでしょうか。

 戸田 そうですね、その時の姿でしょう。無作の姿で……。釈迦みたいな金ピカのお化けの姿ではなくして、ありのままなんだ。そうでないと、天台がいうような「霊山一会儼然(りょうぜんいちえげんねん)として未だ散らず」とはいえないのです。あれは十界互具のほうをはっきりいってるのだから。われわれのこうしている肉体、このなかがぜんぶ大宇宙の生命自体です。大御本尊様は、大宇宙の生命をもっとも強く結集されたものです。それと感応するから、こっちの生命力が強くなってくるのです。

 「久遠即末法」ということが、いま話したことにならないかな。久遠即末法ということはなんだかおかしいように思うでしょう。大昔も今も即だという。

 

一念三千の立場からみれば

 戸田 人間がこういうふうに出てきたというのは、どうして出てきたかということは別にして、「衆生世間」「五陰世間」です。それはいまのような説明でいいと思うが、仏法では「国土世間」がはいります。だから仏法で論ずれば、総じていう場合と、別していう場合と、二つになるのではないだろうか。

 別しての場合は、「衆生世間」を論ずる場合には、さっきの説明でよいのではないかと思う。

まあ、批判してもらいたいけれども。私の見解は、地球にある種の生物が当然生きられる時には、その生物がそこに出てることになる、どういうふうに出てくるかは別にして。そして、今いうリスの親分(笑い)がわれわれの先祖だとするのです。そうしてもいいのです、否定するわけではない。ただ地球が人間の生まれる条件ができた時に、変化してきて人間になったのだと思うのです。

 極端な話だが、たとえれば、衆生、人間というのは、仏法では経のなかには「一時、仏……」とある、一時です。ある時、衆生が仏を感じて、仏がこれに応じて出現するということがあります。また、地球状態の他の星でも同じことですが、人間を感ずる、感ずるというと、ちょっとおかしいが……大宇宙ぜんぶが十界ですから、そこにおいて人間生命がそれに応じて、なんらかの形で出現する。

 あるいは、ここに、イヌだのネコだのいるとする。仮定ですよ、これは。そこに人間が一人もいなかったとすると、その畜生界にその人間界を感ずるのです、十界互具だから。そうすると生まれるのが人間みたいなのが生まれるのです。また、こうして人間がいる時に、畜生界を感じたとすると、生まれる子供がサルみたいだったりする。そういうのがあるでしょう、よく、イヌに似てたり、ウシに似たような子が生まれることがあるでしょう。ああいう現象ではないかと私は思う。

 進化論的な考え方からすれば、オパーリンのような考え方でいいわけだ。仏法上の考え方は、ぼくはどうしても、そうなると思うんだけれども。意識すると否とにかかわらず、畜生界を感じてサルみたいな子を生む人があるでしょう。また、ウシを殺したからウシのような子が生まれたなんて、よくいうでしょう。人間はかならずしも人間だけ生むとは限らない。

 和泉 鳥目なんかもそうですか。

 戸田 鳥目? あれは栄養失調だよ。(爆笑)

 柏原 わたしも見たことがある。……足がニワトリのようで、手はイヌに似て、囗はウサギのようなのです。そういう人を見たことがあるのです。

 戸田 そういうのを進化論では、突然変異というのです。結局、原因がわからないのだから、そうとでもいわなければ説明がつかないのです。

 柏原 そうですねえ。

 石田(次) 青森県、の小学校の先生で、ブタのような顔をした人がいるのです。町中、ブタ先生という評判なんです。

 小平 ところで、その、ブタの顔というのも、むしろ宿習というような……。

 戸田 まあ一面からみれば、そうもいえるでしょう。だが、私のいうのは、人間が発生したのが、リスの親分からでもなんでもいい、畜生界が人間界を感じた時に、人間というものが出現したのではないかと思う。

 北條 進化論とは表面的な見方で、いまのは内面的な見方というわけです。

 戸田 そう。急に人間がどうして出てきたかっていうことになれば、そう考えるよりほかにないのです。私はそう思っている。

 篠原 そうしますと、仏法の一念三千からいきますと、あらゆるものが、人間の生命なり、畜生の生命なり、ぜんぶ具しているからということになりますね。

 戸田 そうです。

 篠原 オパーリン等が代表する現在の科学の考え方では、そうでなかったものが変化して、そうなったという考えが強いように思えるのです。

 小平 それは、互具の考えがないわけですね。

 篠原 仏法では、もともとそうなりうるように具している、それが出てくる……。

 戸田 ええ、君だって、イヌみたいになりうるんだよ。気が変になってワンワン吠えて(笑い)十年もたったら、すっかりイヌになったなんて……。現在のわれわれの肉体でも、そうだ。

 神尾 私が、太郎(飼い犬の名)とジャレて遊んでいると、噛みついてきます。そうするとこっちも噛みつきたくなります。(笑い)関連があるかどうか。知りませんが、感じますね。

 戸田 私は子供のときに、ひじょうにかわいそうな人間に会ったことがあります。冬、雪の降っている最中にある家へ行ったのです。そうしたら、炉の中にチョコナンとサルみたいなものがいるのです。みんなは畳の上にいたのですが。それは異常児が生まれたので、殺すわけにもいかないで、食べ物をやらずに放っておいたら、なにか自分で探してきて食べて生きているのだという。しかも裸なので寒いから炉の中にいるのです。サルそっくり、人間がサルを生んだといってもさしつかえないと思うのです。いつだったか、九州にもいたって、なにか新聞に載っていたでしょう。

 篠原 載っていました。先祖帰りしたといって。

 戸田 サルみたいなのです。人間が畜生を感じてサルを生んだといったほうが適当ではありませんか。

 渡部 先生、そういうのは、国土とか、民族というものが、畜生道的になってきた時に、やはり多く出る現象でしょうか。

 戸田 そういうことも考えられるし、また個人も、畜生界を互具しているのだから。

 渡部 それから私は、まえによく電車の中などで、「あいつはタヌキみたいだ」とか「あいつはイヌにそっくりだ」とか。そんなことばっかり気になったことがあるんです。ときどき飛拍子もなく動物に似てる人がいるのですが、それもすぐ前の世の結果が現れているのではないですか。

 戸田 さあ、そこまでは考えられない。

 小平 そんな、サルやイヌやネコばかりではないから。前世は。

 渡部 そういう動物は人間に近いから……。(爆笑)

 戸田 その人間のもっている性格が、そういうものに似ているというだけの話ではないですか。

 柏原 サルというのは、いままで人間の先祖だといわれてきましたが、サルの仲間にはかならず一匹、中心者が、大将がいるそうですね。そして、仲間の食物の争いとか、強い者が弱い者いじめをするようなことを、うまく解決するそうですね。

 戸田 ほう。しかし、サルから人間になったということは考えられないね。

 石田(明) さっきのお話にかえるのですが、畜生を感じるということについて、あるいは畜生界が人界を感じるという場合、感じるというのは、感じさせるものがある、それは前にやった、習性みたいなものによるものですか。

 戸田 そうではない。それを感ずるというのは、まあ早くいうと、末法になると、みんなひじょうに苦しい生活をするでしょう。ああ苦しいから楽になりたいと、いっさいの人が感ずるでしょう。そのときに、それに応じて仏が出てくる。それと同じように、地球全体が人間界を感ずるわけなのです。あらゆる生命が無意識であるが、人間界を感じたときに、それに応じて人間が現れると、こう私は考えているのです。習性からではないと思う。個人の場合も同じだと思うのです。

 小平 その感ずるのを、前に畜生という習性をもっていたから、だから今、畜生界を感ずるのか、というわけでしょう。習性ではなくて、互具しているのです。

 戸田 そう、われわれの生命に畜生をもっているのです。キツネを拝めば、コンコン様になってしまうというのは、畜生の生命が発動してくるのです。

 原島 よく近親結婚をすると、異常児ができるということをいいます。週刊誌に写真が載ってましたが、いまの、畜生界を感ずるということからいえば、近親で結婚するなんていうのは畜生に多いですから、そんなようにも考えられますが。頭が二つあるという赤ん坊が写真にでていました。

 戸田 それで、生きているの?

 原島 いや、もうすぐ死ぬらしいのですが。

 戸田 頭二つで生きていたら大変だろう。なにをするにもいちいち相談しなければならないし……。それは、こう考えられないだろうか。双子ができて体がくっついたと。畜生界を感じたというのとは、また違う問題ではないだろうか。

 篠原 双子が完全に分かれなかったといえると思います。

 原島 ただ、近親結婚が原因というのが多いようです。

 

「我」は常住する

 渡部 畜生界の話がでましたけれど、われわれもこういう、木とか草とか、土とかいうものになりうるのでしょうか。

 戸田 なりうるというよりも、そこで大宇宙に溶けこんだ生命が、どこにいるということもいえないのだが、ただ、「我」の常住が、そういうような所で、同じようなものを感ずれば、こういうものであるかもしれないというだけのことです。しかし、それは魂ではないのです。

丸のものでも四角のものでもない、空なのだ。「我」が常住しなければ、この生命観は成り立たない。常楽我浄ということはいえなくなってくる。しかし、どこにあって、どうだったということはいえない。「我」が常住するから、死んで地獄を感ずるという御書の意がはっきりする。阿鼻大城へ堕ちるということは、常住する「我」が死後において、なんらかの業を感ずるということになる。その「我」が、またなんらかのハズミで、衆生世間を感ずる。衆生世間を感ずれば、このようにして出てくるわけだ。

 北條 そうしますと、本なら本という生命は、別にはないのですか。たとえば、私なら私の生命というのは、この五体に感ずる以外にない。みんな別ですね。一本の木なら一本の木、何年も生きている杉の木なら杉の木と、ああいう生命というのはないのですか。

 戸田 ああいう生命もあるわけだ。あれは、草木の活動を感じて発動したのだ。

 北條 たとえば、私が死んで、また人間に生まれてくると。その間に、木の実になっちゃったと、そこに自分の生命を感じたということはありうるのですか。

 戸田 ありうるのです。しかし、君が死んで、君の「我」はどれだ、どこにあるというわけにもいかないのだ、それは。それがいちばん面倒なのだ。仏法上の空観になる。逆さでもなければ、横でもなく、光もなければ、姿もない。いわば無性無相。特定して、その「我」が草木を感ずれば、草木になっていることがありうるのだ。

 柏原 それはあくまで。他の人が見れば、木の実の生命としか見えないわけですか。

 戸田 そうです。

 柏原 自分は、木の実に生命を託したものを感じているわけですか。

 戸田 そうです。感じているわけです。

 渡部 そのとき、どう感じているかはまったく予測できないわけですね。(笑い)

 戸田 それはできない、不可思議境だから。衆生法妙という。われわれにしても、ネコにしても、イヌにしても、衆生は法によってできているのだから。ぜんぶ法則によってできているでしょう。心臓がこのへんにぶら下がってくるわけではなし、肺が外へ出ている人はないし、(笑い)うまく、あるべきところにある、法則でできているのです。それが法で、その法が妙なのだ。不可思議なのだから、どうもしようがない。それを衆生というのです。

 安保 それでは、先生、これはどうでしょうか。よく、人が亡くなるときに体のどこかに字を書いたりしておくと、それが、また、そのとおりにどこかへ生まれてきたという話を、聞くのですが……。

 戸田 念力っていうのかねえ。色受想行識というところから、それは五陰世間の問題になってくるのではないですか。私は見たことないけれども……。

 石田(栄) まえに先生がおっしゃったことがあるのではないですか。

 小平 足の裏へ……。

 戸田 わたしも聞いたには聞いた。おばあさんから。

 渡部 このあいだ、一般の雑誌かなにかに写真がでていた。股のところに南無妙法蓮華経と書いたのです。そして、東京都杉並区……なんのだれ兵衛と書いておいたら、五年後にそれが出てきたそうです。その生まれたほうの子の両親が手紙で紹介してきて、もとの親がとんで行ったら、まさしくそうだというのです。

 石田(次) そういう証拠がたくさんでてくれば、こちらでは助かりますね。

 戸田 写真ぐらい撮っておいてね。

 渡部 それには「霊魂は尽きない」などと、こんなデカイ字で書いてありました。

 戸田 霊魂では説明できない。色受想行識の受が強かったんだろう。「我」が受を強く受けていたのだろうと思う。色受想行識、すなわち「我」だからね。それで、ふたたび人間界を感じたときに。そのまま出たわけでしょう。そのような説明しか、仏法ではできない。

 

地球以外に生物は住んでいるか

 小平 自然科学では、現在では人間が住んでいるのは、この地球だけだというのですか。

 渡部 いや、そうではありません。ほかにもあるという可能性がおおいに考えられます。

 戸田 このあいだもなんとかいう天文学の本を読んだのですけれども、それによると宇宙に地球と同じような状態の星が、だいたい推定して千くらいあるそうだ。

 渡部 だいたい観測のときは、太陽みたいにギラギラ光っている星は見えますけれども、恒星以外に、地球のように光らない星では、見えないのがありますから、いったい何個くらいおるかわからないのですが、太陽と同じくらいな規模をもっている恒星を、望遠鏡の届くかぎり調べあげた数ではないでしょうか。

 戸田 そこから、推定が千個くらいあるべきだという話なのです。

 小平 今でさえ、そういう状態ですから、昔なかったなんていえないわけですね。

 戸田 だって、あんなに恒星があるのですから。

 安保 先生、よく「千世界」という言葉を聞きますが、どういうことなのでしょうか。

 戸田 それは千如是のことです。

 石田(次) 千如是を覚った世界というような……。

 戸田 そうです。数ではない、みんな仏法に関係がある。「万八千の世界」というときには、万という因を立て、八千という果を立てるのだ。仏法はみんな読み方がある。それをよく読んだのは、やはり天台です。

 小平 しかし、大千世界というと、やはり、われわれの目に映る世界を漠然とさす場合もあるのでしょうか。

 戸田 やはり、一念三千というところにあるのではないですか。千世界は千如是。

 渡部 五百塵点劫の説明のなかの「三千大千世界」というのも、それと同じでしょうか。

 戸田 それは、やはり、ふつうの世界というようにみていますが、われわれの目に見え、考えられる世界ということですが、一念三千の立場からも十分みている説明です。

篠原 「久遠即末法」といった場合の久遠は、久遠元初の意味の久遠ですか。

戸田 そうです。

篠原 五百塵点劫のことをも略して久遠という……。

戸田 そうもいいますが、久遠即末法ということは、五百塵点劫を久遠と名づけるのではない。

篠原 即というのは。そのまま”ということですか。

戸田 そのままといっても。どうかなあ……。

 

小平 一念即三千……一念にそのまま三千を具えている……。

 

死後の生命はどこにある

 北條 それから、木や草なんかの問題なんですが、あれは結局、国土世間として、宇宙なら宇宙、地球なら地球というものそれ自体の生命の発露といいますか、草や木にしても、水にしても石ころにしても、そういうものはもともとあるけれども、そこへ、たまたま死後の生命というものが、溶けこんでいる。

 戸田 どこへでも溶けこむんだと思う、ぱーッと。そうでなければ、石ころがあると、ここへ御本尊様をおしたためになると、たちまちに仏の力が現れるという、これが意味をなさなくなってくるだろう。即身成仏の意味がなさなくなる。これは、仏の「我」の存在がとうぜん現れてくるわけです。

 どういったらいいのか、(もち)みたいなものなのです。どこを取ってみても餅になってしまう。

餅をついて柔らかいのをもってくれば、四角な餅にもなれば、丸い餅にもなるけれど。みな同じものです。

 小平 電波のお話がよくわかります、なるほどと思います。

 戸田 じゃまになっていない。ここが英国の声で、ここがアメリカの声で、ということがなくて、そして、アメリカならアメリカの声だけがラジオから出てくるのです。

溶けこんだ「我」というものが、ここのところに固まっているとはいえない。宇宙に遍満しているとしかいえない。

 北條 たとえば、ここに木中花があります。そしてそういった死後に、花なら花に託して安らかに休んでいるというような状態で「我」を感ずるという……。

 戸田 託すという、そういうこともない、そういう、はっきりしたいい方もできない、あの花に親爺(おやじ)の「我」がある、などと。(笑い)

 安保 先生、その場合に固定はできないのですか。

 渡部 先生、ときたま、片寄ってくるということはないんですか。

 戸田 片寄ってきてしまえば、衆生として生まれてこなくてはいけない。

 北條 それでは、花がしぼんで枯れてくると、花としては死んでしまいますね。

 戸田 そうです。花びんの花は花としては生きてるのです。あの花は花としての生命なんだ。あそこの「我」が感じているかもしれません。感じていないかもしれない。断定できない。人間であった生命なのです。花の生命になってしまえば、前の人間の生命は感じないのです、もう。あの花は花だけの「我」になってしまうのです。人間界に生まれてくると、前の因果を背負わなくてはならない。また人間界で行為をした果かもしれないのです。

 和泉 それでは先生、実在したものに託されているというわけにはいかないんですか。

 戸田 それは託されているということは、ちょっと無理かもしれない。

 和泉 結局、宇宙の状態というのは、円くもない、三角でもない、結局、わからないものなのですか。

 戸田 それはそうだ。

 和泉 託されているというと、もうすでにそこに形が現れています。

 戸田 自分の生命だって、どれだということはいえない。われわれの生命というものは、どんな生命だといって、ほんとうはわからない。われわれの生命はわからないで、見えるのは肉体と心だけでしょう。「色心不二なるを一極と云う」(御書全集七〇八㌻)とあるが、色心不二といったって、心と肉体としかわれわれは観測できないのです。生きてるといったって、だれも生きていることは否定しないけれども、それでは、おまえの生命はどれだといったって、われわれには説明できない。

 みんなに「我」があるといったって、どんな我があるかわからない。どうだい、お互いにみんな、こうして生きて、話しているけれども、おれの我はこれだっていえるかしら。その我というものは、有るといえば有るし、無いといったら無いし、それで無いかといえば有るんだし。いまこうして生きているわれわれの我すら、どんなものだか。どこに有るともいえないでしょう。われわれは、ただ有ると思っているのにすぎないでしょう。しかし、無いといえばまた、これは間違いでしょう。

 六十二の我見のなかの二つの我見は、有無の見解を邪見といっているでしょう。その命というものが有るとか無いとか、どっちかに断ずることを、我の存在を断ずることを邪見といっている。そして、小乗教で「無我」だということは、無常なるものを無我だとたてるのです。無我、我が無いということも邪見だといっているわけだ。我が有るということも邪見だ。

 実際、われわれの身体で観測してごらんなさい、我というものは、どこにも無いから。

 あるかい、渡部君の我は。おれの我をみせてやろうか、などと。(笑い)

小平 だいぶでかくなってきた、などと。(笑い)

 北條 それは生命というものに対して、われわれが肉体というものしか認められない。それ自体がひじょうに狭いのです、考え方が。

 戸田 そうです。「我」というものを論ずる場合には、われわれはいま生きているから我があると思いこむのもまた間違いだ。しかし、無いともいえないのです。そういうものが我なんだから。だからといって、我が常住だからというので、どこかにフワフワしているのだと思ってもまた困るんだ。我というのは、けっして自分より大きいものでもなければ、自分よりも小さいものでもないんだ。そういうものはありえない。大きくもないけれど、小さくもない。では、ちょうどよいかといえば、ちょうどよくもない。(笑い)

 石田(明) その「我」と宇宙の関係との考え方ですが。

 戸田 そうですねえ、自分のなかにもっている「我」というものが、死んでからどこかに行ってしまい、またその我が集まってくるのだと、こう考えればいちばん楽なのだが、そうではないのです。我という名前をつけるけれど、我というのは宇宙のことなのだ。宇宙の生命と君らの生命と違うのかというと、違うのは肉体と心であって、生命には変わりない。

 渡部 結局、生命というのは、たとえば工場なんかで、パイプの中に水がザァーッと流れてますと、一刻一刻に流速だとか、圧力だとか、中に入っている液体の性質だとか、温度、比重などが、変わるわけです。われわれの体も物質はどんどん変わるわけだし、ちょうど、そのようなものではないでしょうか。

 戸田 とにかく、われわれの体をずーっと通っているものがあるように考えられる。生命というものはその変化をしていく流れているように感じられる大もとのものなんだよ。流れているものでもなければ止まっているものでもない、虚空のごとし、と。それが生命の本質なのです。

 石田(次) 要するに、一つの法則みたいなものです。それでいて実際の物質的な現象と、規則的な現象とは絶対離れられないものなのです。離れられないというよりは、離さないのです。

 戸田 そうだ、離さないのです。

 石田(次) 肉体という仮諦の現象と、心という空諦の現象と、それを掌握していく法則みたいなもの、それを中諦というのではないでしょうか。

 

現在の生命と死後の生命

神尾 そうすると、われわれの生命というものは、ここにある色身、これは大宇宙の生命か 

ら立体的にこ(卯襾かかたようなものと考えられるでしょうか。・(爆笑)後のわれわれの生命 ら

は、南無妙法蓮華経の宇宙生命の中に遍満しているので、どこにあるのでもないので、なにか

のかげんでアブリ出されるというような……。(笑い)

 原島 こういう説明はどうでしょうか。ここに一本の木があるとしますと、これを大宇宙の

生命とするのです。その木からいろいろ枝も出るし、花も咲きます。こういう枝とか、個々の

花です。これがわれわれの個々の生命体だっていうふうに考えられないでしょうか。

 戸田 出たものというのではないのです。この水(卓上の茶碗)を、大宇宙とするのです。風

が吹いてここに波ができるでしょう。波の立ったそれが、われわれの生命なのです。また大宇

宙の生命の動きの一種なのです。だから風がなくなれば、また元通りになってしまう。そのよ

うに説明しています。

 原島 死んだ生命は、宇宙のなかに遍満し、溶けこんでいるといいますね。こうやって生ま

れてきていても、やはり溶けこんでいるでしょう。、この宇宙に。

 戸田 溶けこんでるっていうより、宇宙の生命それ自体なのです。それ自体が変化を起こしているのだ。

原島 波の頭ですか、変なかしらですねえ。(笑い)

 渡部 アメーバの足みたいな格好になるのですか。出たり、引っこんだりしているから。

(爆笑)

 戸田 この水が平らかで、なににも動かないときには、これを九識真如とかいうのではないですか。大聖人様の御書にも「真如の都を出でて、我等流転の……」とかおっしゃっているでしょう。波の立ったところがわれわれの生命でも、死ねば元通りになってしまうのです。

 神尾 体のまわりにこう垣根をして、ここんとこがおれの地所だといっていても、取り去ればもうなんの区別もなくなるみたいな……。(笑い)

 戸田 そう、そんなようなものです。

 小平 飛び出したり、ひっこんだりするわけではないでしょう。寿量品には「無有生死、若退若出」とありますから。

 石田(明) こう考えてはいけないでしょうか。私なら私が、これを形づくっている一つ一つがそのまま生命であるというふうに考えます。そうすると、もし私が地獄の相をして死んだとします。生命自体が地獄へ堕ちますと、死んで非情の生命にあるわけですが、そのときは宇宙に溶けこむといいますと、全宇宙の地獄界みたいなところを、自分の体として、そこに存在すると考えてはどうでしょうか。

 戸田 大宇宙の地獄界か。大宇宙に溶けこんだあなたの生命の「我」が、地獄を感ずるだけなのです。

 石田(明) その「我」が、こういうような体であると考えては……。

 戸田 「我」は体がないのです。我っていうものは形をもたない。もたないで感ずる。ただ、もともと、まだここに肉体が置いてありますから、つながりをもちますから、それで死相が黒くなる。

 石田(明) 肉体を焼いてしまったら、生命の体というものはなくなってしまうわけですか。

 戸田 ないのです。「我」が存在するその我っていうものも、われわれの肉体で感得するように、どこにあるのでもないのです。

 山崎 そうしますと、夢のなかの自分が、苦しむような、あれでしょうか。

 戸田 そうです。あれが「我」だと一応考えられる。たいへんこみいった話になったね。

 

十界互具とは

石田(栄) 十界互具なのですが、まえにうかがったのですが.あらためてまた、お願いしたいのですが。

 戸田 どんなことが、はっきりしないのですか。

 石田(栄) 人間界の仏界の地獄界という……。(爆笑)

 戸田 大宇宙の生命それ自体が十界なのです。それでいて、その十界のうちに、われわれ人間界というものが、あるわけなのです。大宇宙の人間界の生命に感応して、一つの変化を起こしたのが、われわれ人間界なんでしょう。人間界も十界互具だから、人間界の生活のなかに、仏界の生活も菩薩界の生活もあれば、そういう常住とまではいかなくても、ある期間内暮らすわけでしょう。

 たとえば、牢の中に放りこまれたとか、強制労働させられたとかは、地獄界です。その地獄界でありながら、そこで仏界を感ずる場合もあるし、菩薩界を感ずる場合もあるし。大宇宙の人間界とわれわれの人間界は共通なのだ。その人間界でいて毎日の生活のなかに、仏界に長く住む人もあれば、天界に長く住む人もある、声聞界に長く住む人もある。人間界の生命のままに、それこそ人間らしく穏やかに暮らす人もある。それで、そういう生活のなかにまた、十界がある。

 石田(栄) そうしますと、牢に入っているときは、地獄界ですね。人間界所具の地獄界です

 戸田 人間界所具の地獄界だから、われわれが、一日とせず二日とせず、地獄界を強く感ずる世界におかれる場合があるでしょう。この地獄界について、また人間界を感じ、仏界を感じ、畜生界を感じるのです。

 石田(栄) そうすると、どうしても、三段がまえになってしまうのです。人間界の地獄界のまた人間界というように。(笑い)

 石田(次) それでは、一念三万になってしまう。(笑い)一念三千の、一念という問題から出発しなければいけないと思うのです。自分自身を、いま人間だときめこんでしまうと、なにかおかしくなるんではないでしょうか。

 戸田 いや、そうではないのです。なんかの思い違いをしてることが一つあるのです。十界互具というと、人間界に生まれたのでしょう、われわれは。人間界に生まれたから、こんどはそのなかで、地獄や畜生その他を感じたりする以外はないと、思いこんでいるでしょう。そうではなくて、これは、十界互具という方程式なのです。だから、私なら私が、地獄の世界におって、人間界ですけれども、どうみたって地獄にいるとしかみえないような生活をする。

 石田(次) 要するにこういうわけですね。十界というものがあって、それは互具するものなんだと。

 原島 だから、いまの話は、二つに分けていいのではないですか。人間が地獄の生活をしてるというのは、もう、一つの方程式です。それから、また別に、地獄界にいながら、人間を感じたということと。

 小平 話は二つなのです。

 戸田 十界互具という、一つの方程式、法則なのです。

 石田(次) 十界というものは、もう一段進んで十界に展開する性分をもっているのですね。

 戸田 そう、AプラスBはイコールCというのなら、これにどれを当てはめても、たすということには変わりなくなってくるでしょう。そういう法則があるのだから。

 原島 それを先にもってくればわかるわけだ。

 戸田 人間界に生まれて、地獄の生活をし、そこで天界を感ずる場合もある。たとえば強制労働させられていて、飯もろくろく食わせられないときに、腹いっぱい食物をもらったりしたら「ああ、よかった」と天界を感ずる場合がある。人間界で地獄界へいったから、あとはもう、どこへもいかないなんて、きめこむのはおかしいのです。(笑い)

 それから、そういう場合、人間界で地獄へ()ちたと、そこで天界を感じたら、人間界の天界になると考えていいのです。まあまあ、理事長あたりは、いま天界の生活だといえるでしょう。それでいて、しょっちゅう、天界かというとそうでなくて、飲み過ぎだなんて蒼い顔をしているときがあると、それは地獄界でしょう。天界にいて地獄を感ずる。それは人間界の地獄といったっていいのだ。

 篠原 そうすると、われわれは人間の生活をやっているあいだは、人間界なのですね。

 戸田 人間界だ。だけど、人間界の地獄界も、仏界の地獄界も、地獄界というのは、みんな同じです。境涯において同じだ。そのときに何界だという区別はない、同じ地獄界なのだ。

 山浦 たとえば、地獄界にいる人が、喜びを感じますね。それからこんど、人間界のふつう人並みの生活をしている人が、喜びの生活を感じますね。その天界を感じた、その瞬間というものは、両方同じわけで、特別、地獄界の天界だとか、何界の天界だとかいう必要はないわけですね。ただ、天界だけでいいわけですね。

 戸田 そうです。

 山浦 ただ、その天界というものが、また十界に変化する素質をもっているということですね。

十界本有常住とは

 北條 人間でも天界なら天界の人間もいると、その天界でも十界も感じるのだと。ゆえに十界互具という理論が成り立つわけです。したがって、人間界のなかに、天界も畜生界もその他もあるのだと類推していけばいいわけです。

 戸田 類推したのが天台なのです。「説己心中所行法門(せっこしんちゅうしょぎょうほうもん)」といっているだろう。自分の己心に現れたいろいろなものを総合して説いた法門です。

 北條 ですから、結局、お金に例をとりましても、これは月給だとか、これは別に儲けた金だとか、いろいろいいましても、金にはちがいないわけです。人間界の天界とか、天界の天界だとか(笑い)いっても、天界を感ずる一念に変わりはない、同じ天界だというわけです。

 小平 われわれがいま何界にいるということは、各人の因果によって決まるというようなことで、どうでしょうか。たとえば、理事長は、終戦直後は餓鬼界のときにも十界を互具していて、いまの天界のときにも十界を互具している。その終戦直後の餓鬼界、いまの天界ということは、時間によって定めることではなくて、因果によって定まることというふうにいってはいけないでしょうか。

 戸田 習因習果、因果によるといってもいいかもしれない。

 神尾 どうですか。十界のどっかに住所を定めておかないと、都合が悪いというような……。(笑い)

 小平 だから、その住所がこの習因習果で定まるのではないでしょうか。

 戸田 そんなことを定めきらないと、気がすまなくなってしまう。しかし、実際生活はそんなものではないんだろう。

 石田(栄) さっき北條さんがおっしゃったのですが、人間界の十界の生活というものは、人間界から類推して、そういう世界があるだろうと推するだけであって、地獄界の天界とか、畜生界の人間界とかは、実際問題としては、凡夫には考えられない生活ですか。修羅界というのは、海の底に住するといいますが、修羅界の天界という生活は、類推して考えられるだけであって……。

 戸田 あの日寛上人様の説明(三重秘伝抄)は、大宇宙自体に十界が渾然一体として具わっているという。こういう考え方でなすったと思うが、どうでしょう。

 石田(次) あそこは、十界の存在自体の説明ですから、十界互具まで発展していないのです。

 戸田 大宇宙そのものが、十界それ自体だという意味じゃないのですか。そうだろう。そうでなければ、われわれが十界を感ずることができない。

 あそこで、菩薩界がどうなっています?

 石田(次) 「菩薩は本化(ほんげ)迹化(しゃっけ)の如し」……。

 小平 いまの習因習果は、十如是の説明のところです。「善悪に(わた)りて習因習果あり、先念は習因・後念は習果なり」……。「二乗は身子(しんし)目連(もくれん)等の如し……仏界は釈迦・多宝の如し」

 戸田 天界は?

 小平 「天は即ち欲界の六天と色界(しきかい)の十八天と無色界(むしきかい)の四天となり」

 戸田 そういっても、われわれにはピンとこない。

 原島 畜生界と、人間界だけは、はっきりくるのですが……。(笑い)畜生のは詳しい、鳥がいくつ、獣がいくつと……。

 石田(次) 「餓鬼は正法念経に三十六種を明かし正理論に三種九種を明かす」

 戸田 地獄論など、もしそういう本があって、真面目にすっかり読んでみたら。われわれの悩みの状態が、ずーっと分類されていないだろうか。だから、修羅界に人間界があるだとか、なんだとかいうことは、考える必要ないのではないか。われわれに必要ないことです。空理空論なのです。われわれ人間界に十界があって、その十界にまた十界があるのだから、他のにもあることになる。

 柏原 十界互具の骨組みというのは、どうなるのでしょう。なんだかいろんな話がゴッチャになってしまう。そのなかに、法則だって先生がおっしゃるけれど、その話のなかに、きちっと当てはまる考え方はどうなんでしょうか。

 小平 それは、十界常住ということが出発になるんではないですか。

 戸田 そう、そうです。

 小平 その常住する十界の各界に、おのおの十界を具する、十如是を具する、三世間を具する……。

 

即身成仏の大御本尊

 戸田 いったい、十界互具というものを立てて、一生懸命説く目的は何だろう。仏が、十界を立てて説かれる目的は何だろう。

 小平 凡夫の劣心に仏界を具する……。

 戸田 われわれの劣心に仏身を具すから、仏の境界は得られる、仏になれるのだ、ということを教えんがために、十界互具を説いたのです。その仏の目的を忘れて、修羅界に人間界があるのかなんて……。(爆笑)それで、われわれが地獄のような生活をしても、仏の境界も得られるし、人間界も感ずることができると、そういうことを教えていくためのものではないかな、目的は。

 小平 先生、ぼくたちの場合は、仏界というのがわからないのです。われわれに仏界があるっていうことがどれだけ大事なことかっていう、それがわからないのです。仏界がある、ああそうですか、くらいにしか感じられないのです。

 戸田 大御本尊様は「権・迹・本の釈尊の因行果徳の二法を譲り与え給う」とそういうもんだが、仏様で病気されている仏様もないし、貧乏な仏様もないし、権教の仏だって迹門の仏だってりっぱなものだ。そうすると、われわれが貧乏してもだいじょうぶだ、体を悪くしてもだいじょうぶだ、仏のようになれるという確信が生まれてくるし、そのとおりにならなければならない。

 石田(栄) 安心します。(爆笑)仏界がなくて、そういう苦しい修行をしてなるのだとしたら、もう、苦しくてたまらないでしょう。

 戸田 「権・迹・本の仏」と日寛上人様がおっしゃって、そのような仏になれるといわれたのだから、なります。もっとも末法の仏様は、日蓮大聖人様だ。大聖人様のように、あんな佐渡へ流されても、首を斬られるというのに「喜べかし」なんておっしゃって生きてることになんらのご心配がないのだから、あれが仏の境界ではないだろうか。ああなれるっていうことではないか。

 そうでなかったら、実際生きてて毎日、心配ばかりです。たとえ病気になっても「なにだいじょうぶだ。御本尊様を拝めばなおるのだ」と、それでいいのです。そして、安心しきって生きていける境界を仏界というのではないのか。それでいて、仏界に九界があるのだから、ときに怒ったり困ったりもする、安心しきってるのだから怒るのはやめたとか、なんとかというのではなくて、やっぱり、心配なことは心配する。しかし、根底がもう安心しきっている、それが仏なのです。

 神尾 私はいままでずいぶん、心が不安できましたけれど、まあふり返ってみて、安心の場合が少しできたかなと、思うのです、長いあいだやって、肺病になっても、死んでも先はだいじょうぶだと……。(笑い)

渡部 だんだん信心生活してますと、地獄から餓鬼、そして修羅あたりに変わるというように、だんだん変わってくるのでしょうか。

 戸田 いや、だんだん変わるのではないのです。だんだん、草木が育つみたいに変わるっていうことはない。いま地獄だ、ああやっと阿修羅になれた(爆笑)なんていうのではなく、九界即仏界だから、地獄・餓鬼・畜生・修羅というように、だんだん出世したというのではないのだ。病気などで悩んでた人も、御本尊様を受持することによって、すなわち、安心しきった生命に変わるのだ。根底が安心しきって、生きてること自体が楽しいというようになる。生きてる自身が楽しいといったって、九界を具するのだから、ときには、悩むこともあるし、悩みが変わることもある。いままで自分のことで悩んでいたのが、人のことに変わることもある。

 生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか。これが、大聖人様のご境界を得られることではないだろうか。首斬られるといったって平気だし、ぼくらなんかだったら、あわてる、それは。あんな佐渡へ流されて、弟子にいろいろ教えていらっしゃるし、開目抄や観心本尊抄をおしたためになったりしておられるのだから。あんな大論文は安心してなければ書けません。

 石田(明) これはちょっと話が違いますが、質問されたのです。竜女は男になって成仏したというのです。大聖人様の仏法は即身成仏だというので、女人や悪人がそのまま成仏するというのは、それではおかしいではないかというのです。実際問題として、たとえばドロボウのままで成仏するわけはないと思うのですが。

 戸田 竜女が男になった。「変成(へんじょう)男子(なんし)」とあります。あれは、男になったというより「大乗を学する者はこれ男子なり」というところからきているのです。女人でも悪人でも、そのまま成仏しますよ。善人になってから成仏するなんて、善人なんていったって、なにをもって定めるのかわからないのだから。

 石田(明) ドロボウのままでは、いくら題目唱えたって成仏できないだろうというように考えるのですが。

 戸田 題目あげれば、ドロボウなんかやめたくなくたって、しぜんにやめさせられてしまいます。(笑い)

 小平 それでは予定の時間になりましたので、これで終わりたいと思います。どうも長いあいだ、ありがとうございました。