戸田城聖全集質問会編 232 信仰がたりないと病気で死ぬのか

 

〔質問〕 立正交成会をやっている人が病気で死にました。幹部の人は信仰がたりないといっております。日蓮正宗の場合でもこういうのでしょうか。

 

 日蓮正宗以外の宗教は、すればするほどだめです。信仰に限度などありません。最初からだめなのですから、やればやるほど悪くなります。

 では日蓮正宗を信ずる人は死なないかと聞かれたら「ちょっと待ってくれ」という。人には定業と不定業という二つの生命の問題があります。前世の業によって今世の寿命が定まっていること、すなわちいつ死ぬと定まった生命が、定業であります。たいてい、今では七十歳平均となっていますが、仏法上では、その七十歳平均まで生きて病気とかで死ぬ、これを定業といいます。不定業というのは、いつ死ぬかわからない、突然の事故等で死ぬ場合をいいます。しかし、この定業、不定業については、「これは定業の死である」、あるいは「これは不定業の死である」などと、われわれのような凡愚には、なかなか判断がつかないものです。

 病気だから死ぬのではなくて、死ぬ宿命をもっているから病気になるのです。ただ、いまの人のように邪宗教で生命を縮める人がいます。ちょうど嵐で、枝から落ちた果物のようなものです。それは仏法上の計画にははいりません。それで、不定業というのがあるのです。

 この人は五十で死ぬという宿命をもっている人、この人はいつ死ぬかわからない、しかし早く死ななければならぬ宿命をもっている人も、信心によって寿命を延ばして命を保つことができるのです。

 可延定業書に「業に二あり一には定業二には不定業、定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す何に況や不定業をや」(御書全集九八五㌻)とおおせになっており、その証拠を日蓮大聖人様がおあらわしになっています。本山には護秘符という秘法があり、日蓮大聖人様以来の秘法でありますが、日蓮大聖人様のお母様が息絶えたときに、この護秘符を日蓮大聖人様がさしあげ、息をふき返して四年間、生きられたのです。

 ずっとまえのことですが、私の友人に当時二十八歳の息子をもつ人がいました。商売のじょうずな人でした。その人が十年前に脳溢血でたおれました。そのとき長男は十八歳だったのです。中野歓喜寮(現在の昭倫寺)の総代をしておりまして、信心の強い人でした。この人が夫婦そろって、どうか、十年間だけ命を延ばしていただきたい、子供が一人前になるまでどうか、お願いしたいと、ふだんよりいっそう真剣な態度で信心していたのです。そして、ちょうどこのまえに発病したときに死にました。これは、命を延ばしたという以外に考えられません。

 ですから信心はしっかりした信心が必要です。ただ、五十なら五十で死ぬ、六十なら六十で死ぬと決まった人があったとしても、その人が病気だった場合、命が延びるといってもさしつかえありません。しかし信心はしっかりしていなければなりません。